昨日に引き続き、「タンノイのエジンバラ」「中国行きのスローボート」を読む。 村上春樹氏の作品は鮮やかだ。「わからなさ」が美しい。
おびただしい直喩を思った。 ここのところ副詞、形容詞をできる限り削ぎ落とした文章ばかり読んできたから、直喩の多さは三島作品に匹敵するのではないかとさえ感じた。 ただその「喩え」の傾向が違うぐらいで。
平易な文章でシュールリアリスティックなことを書く。 村上春樹の「癖」のような言い回しが懐かしかった。 つまりそれだけ読むことを禁じていたからだ。
溢れるほどの修辞に惹かれて、つい「春樹ふう」に書こうとすると大失敗する。 これはこの人にしか書けない。 こういうふうに説明しなければわからない世界を抱えているからだ。
村上春樹作品を読むのを止めて、エズラ・パウンドが指導したヘミングウェイの文章に注目していた。 そして吉行淳之介、車谷長吉、藤枝静男、遠藤周作、森鷗外、谷崎潤一郎と読み続けてきた。平野啓一郎、川上弘美、多和田葉子も。 読めば読むほど、もっと読まなくてはと思う。
ひさしぶりに読んだ村上春樹氏の短編の世界には、やはりぐぐいと惹かれていく。 だけど以前と風景が違う。 それはやはりいろいろなものを読んだからだろうと思う。
多くの人が嫌いだという理由も聞いた。 「それはないだろうという設定」というのと、「大人が出てこない」というのがぼくが聞いている大きな理由。 だけどこの人はこの人なりのやり方で「抒情詩人を扼殺」しているとぼくは思う。
「平易な文章で日常を描くシュールリアリスティックな作品」だと。 これはそのままレイモンド・カーヴァーにもいわれる言葉だ。 ぼくが好きな理由でもある。
まだまだ勉強は続く。 実作も次のものに取りかかろうと思う。 そうそう一緒に読んでいる長嶋有さんの作品。ぼくは好きです。
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