散歩主義

2006年07月18日(火) 方法論と実作

朝、五時前に起床。
バッハのバイオリン協奏曲を聴く。千住さんのバイオリンがとてもいい。

文体についてさらに勉強しつつ、実作に励む。
三島由紀夫は戦略的に創作の前提として文体をつくった。まず文体ありき、のひとだった。ラディケが基本であると指摘され、自らもそのように書いている。
「自己改造の試み」というエッセイでは細かく自らの作品をあげながら文体の変遷を解説までしている。

平野啓一郎さんが三島に似ている、といわれることがある。
確かにフレーズのいくつかに相似する部分があるかもしれない。
(例えば三島「春の雪」のなかの『一滴、一滴「時」のしたたり落ちる音』のような)
しかし、似ているとしたら文体においてではないだろうか。

三島はある時期からはっきりと鴎外の文体を使っていると述べている。鴎外+○○、というぐあいに。平野さんもよく知られていることだけれど鴎外を自らの文体の基礎としている。だから二人は文体という括りのなかで、鴎外をはさんで似ているといえるのかもしれない。

三島由紀夫は自らの文体について明晰に書き残している。それは彼が文体に対して特に意識的であったからに他ならない。

注意すべきは文体というものを個性としてよりも普遍として捉えているということである。作品はあるがままの自分を表現するためにあるのではなく、文体そのものが意志としてが自己改造のためにあるのだという認識である。だから彼の文体はまだまだ変遷を続けるはずであった。

最近では佐藤正午さんが岩波新書から小説家としての書き方、読み方の本を出している。読んでみようと思う。

実作は原稿用紙2枚ぐらいのペースで進んでいる。小品がひとつ、ほぼ最初の稿が書けた。これからくっつけたり削ったり書き足したりの作業である。

今まで以上に文体を意識するまでになっているかどうかわからない。
仮に文体を、書き写さずに模そうとするなら徹底的に読書することだろう。座右とし、自分の原稿を書く時も常に読めるようにしておくのだ。
それで不十分なら書き写すことだと思う。

あるいは平野さんのように耳から聴き続けるというのも一つの方法だと思う。

すくなくとも前進するということは、創作をつづけることだ。
そう信じている。


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