作家、下重暁子さんの「和のこころ、季節のこころ」と題された短いエッセイを読みました。日本文化の特徴が「和」であることを強調されたエッセイでした。
象徴的な例として出されたのが花の色の話。 日本在来の山野草などの花は、いくつ色を重ねても不思議にあうのだといいます。撫子にしろ女郎花や桔梗にしろ。 一方、洋花は個性を主張しあって色も形も反発してしまう、と。
確かに我が家に植えてある撫子の紫、赤、白はまったくお互いの邪魔をしません。ところが欧州系の薔薇、プライド・オブ・イングランドの赤とホワイトマスターピースの白が並んでいるのですが、お互いが華やかすぎてお互いが浮いています。
ガーデニングをやっている友人などにも、赤のコーナー、白のコーナーと離した方がいい、といわれる始末です。
このような優しい自然が日本の「和」を生んだ、と下重さんはいいます。 また文学や絵画、音楽のなかにこれほど季節が欠かせない要素としてある国が他にあるだろうか、と問いかけてきます。
特に俳句の季語が特徴的なのですが、広義に解釈すると万葉集の頃から季語は存在するのだそうです。 自然が豊かで優しかったのですね。そこに人が感応し続けたからこそ生まれたのだと思います。また生活の中の行事や言葉にも豊かで優しい季節感が溢れていました。
その伝統は江戸期に「わび」「さび」に行き着きます。 「わび」「さび」の本質は即物的ではない、ということだとぼくは思います。どんな場所でも、どんな境遇でも、どんな束縛でも、そのなかで美的境地をつくりだしてみせる姿勢だと思うのです。 その姿勢が生まれた根底に季節や自然を愛でる「眼」が存在したからではないかと思うのです。
翻って現在の日本はどうなのか。 官僚支配と拝金主義と格差拡大の社会のなかで日本の「和」はどこへ行くのでしょうか。 「和」が言葉どうり「なごむ」「やわらぐ」「あらそわない」「調和する」とするならば…。
生活のスタイルもずいぶん変わりました。以前のような季節感に親しいものではなくなりました。 極端な欧米化は和的想像力を奪ってしまったかもしれません。 しかしちょっと我慢したり、あえて欠乏を意識すれば、今まで隠れていたものが、あるいは絶滅寸前のものが見えてくるかもしれません。 例えば真冬の朝、真っ赤に熾きた炭を持って、雪の積もった庭の渡り廊下をさささと急ぎ足でわたっていく風景だとかを。
ぼくは有効だと思っています。
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