リディア・ディヴィスをさらに読みすすめる。これはとにかくおもしろい。 伊藤比呂美「河原荒草」が届き、これも読み始める。 ほとんど衝撃波のようなものを感じている。 この二冊は徹底的に読みたい。
さて文藝春秋4月号に村上春樹さんの生原稿流出事件についての「覚え書き」ともとれる文章が掲載された。早速、それを読んだ。 安原顯氏という元中央公論社の編集者への率直な思いが綴られていた。
流出の詳細については生原稿を自宅に隠匿していた彼も、それを買い取った古書店主もすでに故人であるから不明なままだろうと思う。 だけど本来、保管されているはずの原稿があるべきところになく、高値で売買されていたという事実だけがしみのように残った。
昨日は購読しているメルマガで、いわゆる自費出版(共同出版)のお金の構造を学習した。 商業的なことを考えるのなら、それは絶対に無理だということを改めて確認。 記念出版ならば使えるだろうけれど、とにかく高価だということ。 つまりこういう会社は「書いて本にする人」が顧客であって、「本にしたい人」をどれだけ獲得するかが会社の業績となる。 いいとか悪いではなく、それを誤解してはいけない。
また京都新聞では文芸結社の今後についての記事が大きく出ていた。 京都の長い歴史のある短歌結社が次々と解散したり、活動が停滞していく状況の中、歌人・永田和宏さん主催の「塔短歌会」は参加メンバーが増えているという。 一方で結社の束縛を嫌いネットで自作を発表する人が増えているにもかかわらず。
永田さんは「ネットは『場』でしかありえず、文芸を生む『座』の力はない」という。 「短歌は顔をつきあわせて批評するからこそ作品の質が高まる」とも。 『座』の力はそれほどしっかりしているのだろう。会の運営にも工夫があり会員の熱意が「座」を支えているのだろう。それはとても確かなように記事からも感じられた。
大江健三郎さんは「私という小説家の作り方」のなかで、ご自身が少年の頃に憤然とした経験をあげて
「添削者が、その根拠をよく知り、もとめられれば説明しうるのでなければ、彼のやっている事は犯罪である」
といいきっておられた。他者の、特に少年少女の文芸創作活動に対して、書いた本人を書く現場から引きはがすような嫌悪をもよおさせるほどの「添削」は犯罪行為だというのだ。 とにかく書いてみる事。そこからしか創作は始まらないのに、始まる芽を摘むような行為を非難されていた。
文芸に関連するこれらの事柄を考えた。 いろいろと感じた一日だった。
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