散歩主義

2006年02月02日(木) 日々のなかで

今朝は久しぶりに晴れた。明るくなっていく東の空を見ていて、日の出の時間も早まりだしたことに気がつく。
今がいちばん寒い頃だけれど、冬の残りは少ない。

朝刊で最新の国内文学の時評を読む。「群像」がおもしろそうだ。

ところでここ二、三日、「作品の古さ」とはなんだろうとかそういうことを考えている。
たまたまみつけた昭和39年の世界文学全集の訳文に「古くささ」ばかりが感じられて、そしてとても「読みにくい」と感じたことが原因なのかもしれない。

だけどその前に読んでいた谷崎潤一郎の「春琴抄」や「蘆刈」には全然古さを感じなかった。「蘆刈」などは句読点の極端に少ない古来の日本文学の「書き方」を採用しているのだけれど、むしろ新しさを感じていた。短いセンテンスで積み上げていくスタイルに慣れきってしまっているからだろうか。

谷崎の作品だって書かれたのは古い。だけど新しい。
何故だろう…。

詩でも言い回しが古いと感じるのは近代詩の訳詞に多く、それよりも以前に書かれた俳句や短歌には全然古さを感じない。

いや古いから悪いのではなくて、問題なのはとにかく「読みづらい」こと。読んでいるという感覚が希薄なことなんだ。

保坂さんの「書きあぐ」に、小説の場合、その小説が「今を生きている」ものは古くならないとあったように思う。
「小説の中の今」ということだろう。チェーホフもしかり、ドストエフスキーも…。だけどそれを「古い日本語」で訳されたらどうだろう。

古く感じるのは「訳」だからなのか。外国文学はある期間が過ぎると「新訳」が必要なのだろうか。
そういえば外国文学ではないけれど古典の「源氏物語」は何度か口語に置き換えられた版がでている。しかし明治以降のものしかぼくはしらない。
江戸時代にはなかったのだろうか。
実は今、古典で「伊勢物語」を読んでいるのだけれど、解説によればひろく庶民にまで読まれていたのはこちらのほうだという。確かに「源氏」は美しいけれど、下世話な(ともいえるんじゃないか)「伊勢」のほうが生き生きしているように思える。「読める」のだ。

それとも古典になってしまうと今や完全に「違う言語」だから新鮮なのだろうか。

ぼくは若い人のようにはもはや書けないけれど、若い人にはできなくてぼくらか、ぼくらより上の世代にできる「今」の書き方もあるはずだと思う。
と、思うのだけれども古典に傾倒した頃の谷崎、あるいは能の脚本の骨格、古典の物語口調にとてもひかれている現在である。

「今を生きる」小説、詩を模索しています。


 < 過去  INDEX  未来 >


にしはら ただし [MAIL] [HOMEPAGE]