散歩主義

2005年12月02日(金) 冬曇り

am5:00 起床。珈琲を淹れて、掃除。

am6:00 ハナの散歩。今日は曇天なので空がなかなか明るくならない。
am7:30 朝食。ごはん、ナメコと舞茸のみそ汁、お揚げと聖護院大根のたいたん、納豆。

●お昼前、詩とは朗読するものか否かで、文庫本主義者と意見を交わす。彼女はするべきでないという。理由は声に逃げるから。紙面は逃げ場がないぶん詩そのものの優劣がはっきりわかる、と。
確かに現代詩人のなかにも朗読に対する批判はあって、朗読は文字や紙面の美しさ、あるいは行替えの意味を全く考慮していない、というものだ。

ところが朗読する側からは全く正反対の主張がある。つまり朗読を否定する人たちは紙面に逃げているというわけだ。肉体をともなってこそ初めて言葉にリアリティーが生まれる、というような意見だ。

ぼくが見たり聞いたりした意見のなかで両者に際だったものをあげてみた。

ぼくは「朗読至上主義」ではない。最近はやっている音読ブームにも若干、首を傾げる方である。
歴史的に、古代において読書とは声を出すものであったという。それがいつしか人間は「黙読」というテクニックをつくりだしたのだった。

だいたい誰もが朗々と大声をだしていたらうるさくてたまらないし、夜中にそんなことされたら安眠妨害だ。

たしか古代ローマ皇帝の誰だったか名前を忘れたけれど、彼がある教皇の博識ぶりはいったいどこから来るのか調べたのだという。音読、つまり読書をしている形跡がなかったからだ。すると彼が深夜に「黙って」本を読んでいる姿を発見。おおいに驚愕したという話を読んだことがある。
その頃「黙読」するような人はいなかったのだ。

これを京都新聞のコラムに書いていたのは「ケータイを持ったサル」の著者の正高さんだったと思う。
「黙読」こそ思考のテクニックなのだという主張だったんじゃないかな。

確かに何でもかんでも声を出して読めばいいというものじゃない。だけど詩を書く時、口の中で声にならないまでも、やはり「詠んで」いる。
そんな呟きは止められないし捨てられない。また、詩は口に出してみて初めて「わかる」ものが多い。

詩の朗読会があっても時間がほとんど無いから参加しないけれど、詩を作る過程の中ではなんども詠んでいる。だからごく個人的な呟きは続けているわけだ。
文庫本主義者だって、遊びで句をひねる時は朗々と口づさんでいるじゃないか。
とか、そんな話をした。
だけど現代詩ぐらいだね、こんなことが言われるのは。

正午 昼食。パン。

●どんどん冷え込んでいく。冬本番。

pm17:00 ハナの散歩。

●家に帰り着く寸前、かなり背の高い小学校高学年の男子が一心不乱に本を読みながら歩いているのに遭遇。ほとんど前を見ていない。
危ないなあと思いながら、何をそんなに真剣に読んでいるんだろう、と覗き込んでやった。えへん、おじさんは背がずうっと高いのだ。
あー、なるほどハリー・ポッターだった。
そうかあ、こうやって読書経験が積まれていくんだな。
ぼくが彼の年齢のころはアルセーヌ・ルパン全集に夢中だった。
だから「はまる」とああなる、というのはよくわかる。
ほんとに「無我夢中」そのものが歩いていた。

pm18:00 夕食。ごはん、ミンチカツ、キャベツ大盛り、スパゲティサラダ。

●創作、少し前進。


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