新潮選書・『「里」という思想』・内山節 を読み終えた。 哲学の方ではあるけれど、言葉は平易でわかりやすい。哲学とそれ以外で使用される場合とで意味が違うな、と感じたのは「了解」という言葉ぐらいだった。
だから、書かれていることがストレートに入ってきた。 現代の「どこおかしい」ことを掘り下げて書かれている。もちろん文学へのヒントもあった。書かれていることに反論はない。 むしろ頷くことが多く、日記を書くのも忘れて読みふけった。
内容は多岐にわたるので、あえて紹介はしないけれども 「反グローバル主義」という側面は強調しておくべきかもしれない。それにしても単純な反対ではない。「反」という概念そのものも考えさせられる。
ずん、ときた。 これほど明快に近代思想を批判した文章を久しぶりに読んだ。 哲学書をほとんど読まないぼくなのだけれど、未来をどう生きるかというテーマが今ほど深刻に考えなければならない時はない、と思っているし、「書く」という行為の柱もそれに準じて模索していたから。 だから、手にした。
社会の中で、個人として、世界の中で、自然の中で人間はどう生きるのか。 それを考えるのは哲学である、と思う。 文学も音楽家のスタンスでさえ、それで決定される部分が大きいとぼくは思う。
そういう本なのだけれど、先人はいる。 輝かしい未来を思い描き、結局は戦争と環境破壊にたどり着いた近代ヨーロッパ思想(まさにそれが世界を導いてきた)の解体こそが20世紀後半から21世紀の哲学者の仕事だったのではないかと思えるのだが、 例えばレヴィ・ストロースは内山さんと重なる部分がある。
グローバリズムという、アメリカスタイルの世界普遍化という、実はとても旧い思考行動様式がどれだけ世界にきしみを与えているか著者は説く。 結論はある意味、厳しい。
「素晴らしい未来を提示し、そこに向かって人々を誘導する方法を、私たちは捨てなければならないのではなかろうか。その意味で私は未来を喪失させようと思う」
これは「素晴らしい未来を提示し、そこに向かって人々を誘導する方法」だった近代ヨーロッパ思想がいったい世界に多くの災禍を生み、どれだけ多くの人を追いつめているかという反省から出た言葉である。
では、どう生きるか。 その覚悟にいたる思考を書いた本であるともいえるだろう。 ヒントは世阿弥にある。 世阿弥の「離見の見」。「観衆から見られているように自分を見よ」という意味なのだけれど、ここからヒントをえてレヴィ・ストロースは「はるかなる視線」という本を書いた。 内山さんは「観衆」を「自然」に置き換える。
大切な「折り合い」のこと。 遙かな昔から、実は日本には徹底した個人主義と共同体の中で生きる意識とが共存していたこと。 何度も読み返したい本だ。
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