| 2004年12月01日(水) |
「森敦との対話」を読んで |
読み終えた直後の感想は「ざらついた感じで覚醒した意識のよう」になった自分がいた、といいましょうか。
時間軸で説明すると、佐藤富子さんが、森敦らの同人誌に参加し、森に出会い、妻に出会う。それからつきあいが始まり、創作の援助から生活の援助までを彼女が果たすようになり、やがて森が小説の執筆に力を入れ始め、それを引き金にするように妻の様子が変わり、入院。小説の注文が入り、そして芥川賞を受賞。佐藤富子は森夫妻の養子、森富子となり、そして妻が逝去する。 まさにその「逝った」という言葉でこの小説は終わります。
「月山」という作品の成立と評価を物語のピークとした評伝小説。 そこにいたるために失われたといっても過言ではない森暘という女性の存在の余韻が読後もずっと響き続けています。 富子さんの筆致は冷静に森敦の弱さ、狡さ、旧さを、その才能の天才ぶりとともに、隠さずに指摘しています。たんなる礼賛ではありません。ことに女性に対する態度はばっさりと切り捨てています。 ただ、それを乗り越えてでも小説を書かせたいという富子さんの執念に似た気持ちと森敦の才能への惚れ込みようも、はっきりと伝わってきて、それでさらに緊迫感を持って読んでしまったのでした。 緊迫感。 つまり、書かないでは済まされないぞという気持ちが溢れているように感じました。
何度も登場する作家、小島信夫の小説にかける凄まじいまでのエネルギーや、集中しきった森敦の描写などが、作品を引き締め、「ものを書くということ」について否が応でも考えさせられました。 逆説的に言うのなら、そうまでしなければ小説は書けないのか、ということも。 尋常ならざる真摯さ、ということをもちろん認めた上で。 森敦というかたは、才能もさることながら、(本書によれば)そのたゆまぬ努力こそ、さらに、さらに賞賛されてしかるべきだと思いましたから。
まるで日記から引用しては続いていくような小説です。 たぶん読書慣れしている方なら、一気に読めてしまうでしょう。
書くことは読むこと。 読むことは書くこと。 その反復のことも思いました。 しかし技術論については、とてもではないですが感想は述べられないです。 ただしっかり読み取るのみです。
しかし、立ち止まること、駆け出すこと。見えること、見失うこと。生まれるもの失われるもの。そんな渦の中の人生を思いました。
だから、森敦の文学理論云々よりも、この本を読み終えたあとに、どんな物語や小説を書くのか。そのことがとても大事に思えた一冊でした。 心の一隅に、微かながら森敦の生き方に、反発とかではなく「自分は違う」という自分がいたことも正直に書いておきたいと思います。 考えてみれば当然のことではありますが、そう意識せざるを得ないほど没頭して読んでいました。
*「森敦との対話」森富子・著 集英社
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