冬の京都ならではの北山時雨が降ったり止んだりするようになりました。 天気の基本は晴れ。北西の風が吹いていて、北山の向こう丹波、そしてさらに若狭のほうから雲が流れてきます。
寒気が強い時は低い雲が山から京都まで伸びてきて、細い雨を降らせます。弱まるとまた晴れていくという繰り返し。 空気はいつも湿っていて、洗い落とされたような感覚が街を歩いていても感じられます。
今日の午前中はその予行演習のような天気でした。
本は「森敦との対話」を読み継いでいます。 紹介される文学理論や読書のプログラムを読み、作家の生活のありようを読んでいます。 ここで、かつて紹介した「山手線が書斎」という状況も、奥様への配慮でもあることがわかりました。その奥様の病についても慄然とする思い出読んでいます。
また、もし保坂和志さんの「書きあぐ」を読んでいなければ、もっと読んでいて痛烈に感じるであろう部分も、つまり「書きあぐ」と重なる部分がかなりあって、なぞっているような感覚になることがあります。
それでも何より痛烈に感じるのは作家としての生き様でしょうか。 頻繁に登場する小島信夫さんのバイタリティーに驚いたりしながら。
だけどまてよと思う時があります。 この本を読んでいると否応なしに「お前はどこにいる」と自問してしまうのです。
ここに書かれている小説家たちのひたむきさに半ばあてられながら、森さんの言う「呼応」を考えます。 自分は一体、どこに誰に呼応しようとしているのか。という自問。
そして「命題」について。 例えば「命題」を「聖書」に求める人もいる。「論語」に求める人もいるし、「ことわざ」に求める人もいる。「植物」に求める人もいるし、「神話」に求める人もいるし、「普通の家族生活」に求める人もいる。
自分の奥深くにある「命題」はなんだろう。と、いう自問。 それをずっと考えていました。 自分の書いたものを並べて考えました。するとテーマや主題はいろいろだけれど、いちばんの底に「共生」という言葉がのこりました。
「共に生きるバリエーション」を書いている。と、意識してみると「そうだ」と答えが来ます。
ならば「呼応」はどうか。 好きな小説家 吉行淳之介、庄野潤三、保坂和志、平野啓一郎、江國香織、小川洋子…と次々とあげていっても「呼応」ということまでを考えたことはなかったです。 むしろ「絵画」「音楽」「詩」にはあります。 この作品に応えよう、と思い立つことが。
となると出会いは大切だし、求めていくことも大事ですね。 何を見るか。どう… 結局はどう、生きているかだ、と。
同じ自問自答を続けながら、それが太いものになっていく気もしています。
時間軸に沿った「密閉型小説」、「森敦との対話」の時間の流れに寄り添っていると、べつの場にいる「ぼく」が見えてきます。
この本を読んで、結局、強化されたのは自分への思いでした。 自分を引き出すのは自分しかいないんだ、と、いうこと。
では今夜の〆の音楽をかけます。 ボビー・ウォマック。
おやすみなさい。
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