| 2004年11月08日(月) |
「滴り落ちる時計たちの波紋」を読む |
読む前には「『くず時間』の中で続けられた創作」を思っていた。 これは日本画家の故・小倉遊亀さんが生前のインタヴューを受けて答えられた言葉である。
小倉さんは禅研究家のご主人を「先生」と呼ばれ、その「先生」との生活が最初にまずあり、そしてその合間の10分、20分という時間に少しずつ、創作を重ねていかれたという。まさに「輝くくず時間」なのである。
全体に何を作るかという意識が徹底しているから、創作そのものに「切れ目」はなかったという。
ものを創る、という意識をここまで透徹されることが出来るからこそ、あれだけの作品を作り続けることが出来たのだろうと思う。
焦点の合わせ方。集中力の高さ。…ただただ素晴らしいと思う。その「構え」を爪の垢ほどでも見習えたら、と。
そんな「くず時間」で続く、ぼくじしんの読書と創作。 平野啓一郎さんの「滴り落ちる時計たちの波紋」は最後の一話の手前まで読んだ。 とにかく仕掛けに驚く小品がいくつか。
「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」 これは「瀕死の午後」と「波打つ磯の幼い兄弟」の二遍からなる。 二つを結ぶものは「穴から出てくる赤いもの」。前者では「耳からの血」後者が「岩の穴からの蟹」。水平に結ばれた世界。それぞれの登場人物の垂直の時間(来歴)とも結ばれる。
「les petites passions」 文字どおり「少年の磔」。青空と夕映え。鉄棒と串刺し。支配している沈黙。イマージュが素晴らしい。圧倒される。
「白昼」 乱反射する光に目眩がしそうなほど、「鏡」を意識する作品。追跡と逃亡の瞬間のすり替わり。どこまでも際限なく閉じこめられている感覚。
「鏡」と「閉じこめられている」ということを構造的に見せてくれるのが 「閉じこめられた少年」 物語の真ん中に鏡をたてて、両側に文章が展開している。 これは比喩でもなんでもない。同じ行が本当にそういう展開になっている。鏡に映ったように、本に印刷されている。 で、文章も物語もなんの破綻もしない。「少年」は物語の中に閉じこめられ、いつまでも本の中を回り続ける。 あまりの手際の良さに舌を巻いた。
「初七日」 父の葬儀をめぐる二日間の物語。ここでも垂直と水平の感覚が揺さぶられる。 「野良猫」の存在感がいい。 父と親族のそれぞれの中に流れる時間を垂直とすると、葬儀にあたってすべてが思惑という形や行動で水平列に幻視される。 その綿密な描写。
「最後の変身」 カフカの「変身」を語りながら、自らを語り始める。横書きの文章。もしや、と思っていたら、最後に自らのサイトに残した遺書であることがわかる。 「俺自身」「引き籠もり」「変身「役割」「本当の自分」などのキーワードが太字で示され、延々と独白が続く。時に呪い、時に叫ぶ。 途中からは主人公のネットへの関わり方が毒を吐くように続く。「日記」も「掲示板」も、書いた経験のある人は否が応でも「自覚的」にならざるを得ない内容だと思う。 最後のキーワードは「虫」。彼は「虫」になるんだと叫ぶ。
あと残すは数ページの「バベルのコンピューター」だけだけど、これを理解するにはちと、時間がかかると思う。
たしかに刺激に満ちた一冊だった。様々な実験と可能性がぎゅうっと詰め込まれている。 ぼくが特に惹かれたのは「垂直と水平」という概念。時と場の関係ともいえようか。 モチーフよりもその概念の取り扱い方の鮮やかさに目を奪われた。
と、書き終えて「くず時間」の精度を上げようと考えるぼくがいた。 相変わらず。
*「滴り落ちる時計たちの波紋」 平野啓一郎・文芸春秋社
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