| 2004年10月26日(火) |
「新しい人」からの発想 |
これから書く文章は読書感想文ではありません。 ある作家の構想する人間像に、とても共感するところがあった、とそう書いてしまえば終わる文章です。その共感について書きます。
作家とは大江健三郎氏で、人間像が構想されているのは「『新しい人』の方へ」という作品です。 最後の章で、この本は、前著「『自分の木』の下で」を書いたのち、もう少し役に立つものとして、もうひとつの本を作ろうと思いいたったとありました。そして読者として、子供といってよい若い人やその母親を念頭に置いていることも述べられています。 したがって、とても読みやすい本になっています。読みやすいけれど決意を迫ってくる本でもありました。ぼくのような「古い人」の部類に入るものにとっては、そのように襟を正したくなる本でした。
「新しい人」とはどんな人か。 「ウソをつかない人」「他人を傷つけず、自分も傷つかないように生きる人」 「意地悪をしないし、されない人」 なんだか冷笑が聞こえてきそうですね。そう「冷笑を乗り越える人」。
こんな人ばかりなら、世の中なんの問題も起きないよ、と思えるでしょう。 大江氏は本気で「こんな人」を構想されているのです。
その具体的なモデルがイエス・キリストそのひとであり、(大江氏はキリスト教徒ではありません)「新しい人」というのは新約聖書にあるパウロの「エフェソの信徒への手紙」から、その着想を得ています。
引用します。 ≪キリストは平和を表す。それは対立してきた二つのものを、十字架にかけられたご自身の肉体を通じて、ひとつの「新しい人」に作り上げられたからだ。そしてキリストは敵意を滅ぼし、和解を達成された…。 私は、なにより難しい対立のの中にある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、「新しい人」を思い描いているのです≫
そして、「新しい人」とは、例えばきみは「美しい人」、きみは「かしこい人」、きみは「優しい人」などと同列できみは「新しい人」と並べられるものではない、と。 もっと特別なものなのだと述べられています。そのことはそのイメージが重層的に語られていく本書を読んでいただければわかると思いますが、人のありようとして次元が違うあり方。むしろよりラディカルな姿。そう、まさに「特別な」あり方なのです。
引用します ≪子供たち、また若い人たちに、「新しい人」になってもらいたい、(略) 少なくとも「新しい人」になることをめざしてもらいたい。自分のなかに「新しい人」のイメージを作って、実際にその方へ近づこうとねがう。子供の時そうしてみるのとそんなことはしないというのでは、私たちの生き方はまるっきり違ってしまいます。≫
ぼくの端的な感想を述べるならば、大江さんはみなさんに「キリスト」になることをすすめているのです。 笑止、というなかれ。ここ2000年で「新しい人」とはまさにイエス・キリストただ一人でした。あるいは仏陀もそうでしょう。 あらゆる敵意を廃し、和解を成就した人として。
そしてイエス・キリストも仏陀も、「誰もがわたしになれる」といって説法を開始したのではなかったでしょうか。 ですから歴史上「新しい人たち」は存在したとぼくは思います。 価値観の尺度の違うありようとしての「新しい人」が。
逆に考えるのならば「新しい人」が方々に現れなければ、人類は死滅するのかもしれません。そんなせっぱ詰まった状況下であるのかも。
ぼくはこの本を読み終えて、ひと連なりの文章では語れない「新しいひと」のイメージを持ちました。それはキリストでも仏陀でもありません。 ひとりひとりの生き方としてしか表現できないもの、だと思います。
そしてそのことにひたすらに励んでいけば、まるで孤島のように世の中に浮かぶいろんな「新しい人」の存在に気づくのではないか、そんなヴィジョンすら持ちます。
要は「新しい人」になろうとすること。それは「なってしまう」ことよりも重要かもしれません。そんな気もするのです。つまり「新しい人」は生きていなければならないから…。
ぼくの共感は表現者の立場として「新しい人」に依拠しようと考えるところにあります。 価値体系の外。大江健三郎さんの、いや渡辺一夫さんのことばでいうなら「準アウトサイダー」としての発想として、そこにこそぼくの立脚点をつくることこそ、人をめざして表現できると直感したからでした。
興味のある方にご一読をすすめます。
大江健三郎・テキスト 大江ゆかり・絵 「『新しい人』の方へ」 朝日新聞社
|