文豪・志賀直哉が京都の街を好んでいたのは有名で、実際、いろいろと所を変えながら住んでいた。 もっとも有名なのは山科区・竹鼻で、ここには巨大な石碑が残っている。竹鼻に住んでいた頃にはすでに名声は確立されていたと言っていい。さらにここから奈良の有名な住まいへと移るに従い、巨匠と呼ばれていく。
その竹鼻以前、まだ生活が苦しかったころの志賀直哉の住んでいた京都の街がある。 これは哲学の道のいちばん南端のお寺のあたりが有名で、彼が京都に最初に住んだのはここである。
この時分の志賀直哉の生き様は「暗夜行路」とだぶるところが多く、主人公の時任謙作と直子の出会いと結婚、そして二人が散策する道も、実生活とだぶっている。 そして、まさに「そのころ」、彼は京都でもう一カ所、西の衣笠にも住んでいたのだった。
衣笠というと現在の北野白梅町から西のあたりをいう。等持院があり立命館大学がある。昔は市街地のはずれで静かな住宅街というよりも、まだ畑も残るところだった。年表によると志賀直哉は父との不和を抱えたまま、勘解小路康子と結婚し、その年に衣笠に移り住んだのだった。
この結婚で父との関係はさらに悪化し、康子は神経衰弱に陥ってしまう。 二人はほどなく京都を後にし、鎌倉へと移っていく、さらに赤城山、千葉の我孫子へと移住し、我孫子でようやく落ち着くのだ。そしてその後に京都の家が再び登場する。満を持して京都に「戻った」ともみえるから、おもしろい。 有名になってから住んだ「京都」は、最初が粟田口で次が例の山科・竹鼻である。
つまり衣笠は志賀直哉が人生の最も苦しい時期を過ごした場所ともいえるのだ。 志賀直哉の生涯のなかで、なんどもなんども繰り返された(二十三回といわれている)転居の中でも、もっとも闇に包まれた場所におもえるのだ。 しかも新婚である。
それが「暗夜行路」とも重なり、物語の主人公たちは衣笠から北野の天神さんへと散策をしていたりする。
この「散歩主義」をかなり昔から読んでいる方なら、ぼくがよく歩いている道と符合するとお気づきかもしれない。 実際、ぼくはそのとおりの道を歩いて天神さんにいく。
椿寺、大将軍八神社、紙屋川の橋、物語に出てくる場所はすべて健在だ。 この道を夜によく歩く。今では大将軍商店街になっていて、ずっと東へと名前を変えながら続いている。
大規模売店が白梅町にできてから、火の消えたように静かになった商店街は夜に似合う。 歩いているとまさに「夜を往く」風情なのだ。
最近まで自分の好きな夜の散歩道が志賀直哉の「散歩道」と重なっていることを知らなかった。 現在、志賀直哉の住んでいた場所は黒板塀に囲まれた邸宅になっている。 驚くことに、都市型郊外住宅のはしりであったという。 一種のバンガロースタイルの共同住宅ともいえて、ほかに気鋭の日本画家も何人か住んでいたという。
志賀直哉というと晩年のひげを蓄えた堂々たる人格者をイメージするけれど、たぶんこのころは触れれば切れるほどの鋭い眼差しだったのでしないだろうか。
ちなみに椿寺には与謝野蕪村の師匠にあたる夜半亭巴人の墓がある。関東出身の彼の墓所がどこにあるのか案外知られていないけれど、ここにある。
もう一つトリビアを。 名をなした志賀直哉が最初に住んだ粟田口三条は東海道の洛中への入り口にあたり、罪人の遺体をまとめて乱暴に埋葬した場所であった。明智光秀の遺体もここに棄てられたのだけれど、誰かがここを這い回り、その遺体を密かに運び去ったという。
今夜も天神さんへ散歩をした。 粟田口は最近行っていない。 「光函」にでてくる「carco」は粟田口のすぐ近くである。
参考文献 「関西名作の風土」 大谷晃一・著 志賀直哉の「京都」 清水康次…京都新聞9月20日
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