| 2004年08月24日(火) |
「癒されて生きる」を読んで |
ずっと読めないままだった本を読むことができました。 タイトルは「癒されて生きる」。作者は柳澤桂子さん。生命科学者です。
「癒し」という言葉が、紙や電波の上を活発に飛び交って久しく、この本のタイトルを見た時にぼくの友人は「またイヤシ?」と、ずいぶんはっきりと言ってくれました。食傷気味なんだけど、とか、言葉に手垢がついた、と。
たぶん彼の言いたいことは、とにかく「癒されたい」からといって、ベタな状況設定の物語に自分を投げ込んで半ば酔っておられるのでは、というような状態のことだと思うんですが、それを「癒し」とはぼくも思いませんけれども。
作者の状況を作者の言葉で説明すると
『一日中ベッドに身を横たえて過ごし、一歩も歩くことはできない。ほとんどのことに介護が必要である。食べ物は喉も食道も通りにくくなってしまつたので、流動食と中心静脈への点滴で栄養を補給している。 手が疲れて口へ物を運ぶことができない。排泄障害もある。 体はこのような状態だが、私は横になったまま原稿も書けるしインタヴューもこなす。それだけしかできないというほうが適切かもしれない。』
さらに酷いのは病名も原因も一切が不明のまま30年間、病気が進行してきたこと。故にあぶり出されるように明らかになる、医師や人の「心無い」言葉や態度。 それに傷つき苦しんでこられたことが述べられています。 そして現在、病気はいまだに進行しているけれど、若き優秀な医師、友人、ヘルパーさん、福祉関係者、家族に支えられて暮らしている状況です。
この本は柳沢さんが発病から現在(1998年)までを振りかえり、「充実した死」を最終ラインに見据えつつ、どのような体験をし、どのように生きてきたか、その間に何を考え何を感じてきたか、率直に簡潔に綴られたものです。
マウスの発生に関する研究をテーマにしてきた科学者であり、現在もサイエンス・ライターでおられます。「だから」といってもよいと思うのだけれど、言葉は正確であり文章は論理的です。
語られるテーマは医学一般、大脳生理学、ターミナルケア、文学、宗教、音楽、と幅広く、それらの情報を、自らの考えで編みこまれた叙述が続きます。 特に「生きがい感」について、心理学と大脳生理学の実験結果から考察した章は読み応えがありました。
「生きがい」は年齢とともに変化するものであり、特に老齢であるとか著者のような病いをえたものにとって 「生きがいを求める心もまた、執着の結果であると思える」と主張される。
「しかし、年老いたときは、生きがい感に執着することなく、自らの価値も問うこともなく、この世でなんの役にも立たない自分を受容できるだけの包容力を身につけていたいものである」
次の部分が「生きる」ということを考え続けた著者のいちばんいいたいことなのだと思います。 「何の価値もない自分を肯定すること」 著者はここに行きつきます。凄い言葉です。
よく「癒す」という言葉はそれによって心身が回復し、新たな欲求の実現のために動いていこうという意味合いを持たされている気がしますが、もしあなたが身動きのとれない病であったのなら、まずそんな自分に「何の価値もない」と宣言すること自体が困難でしょう。 それを肯定するのです。
ではどうやって幸福感を得るのか。 それも脳内のシステムから考え、「自分に与えられたもの」のなかでより豊かに生きることを模索するしかないと結論づけます。 この言葉が前述の「身動きのできない状態」にある人から出てきた、ということに注目してください。
さらに模索は続きます。「動けない」著者は音楽や、本、絵画に親しみそれらを手がかりに、またベッドから眺める外界の自然の変化に鋭敏になりながら思索を深めていきます。 そして「ものに執着することが苦を生む」のだから執着を捨てるという認識に至ります。 それは「自分を無にする」ことだといいます。ただし、これは自己を消すのではなく、自己を超越するという意味あいが強いですね。 それは著者が引用するフロムの学説、エックハルトの主張などから組み立てられ、脳の働きに関する最新の情報がそれを補強しています。釈迦やキリストが述べてきたことでもありますね。
自己を超越することは、内面的な能動性を高めること。能動性が高まるということは「生産性」を高めるということ。その「生産性」とは何も新しいものを創造するのではなく、感性を高めるということである、と。それは心に安定をもたらし、幸福を感じることに繋がるのです。 ぼくは「日々あらたに感じるこころを生産する」と感じました。「象徴的な生産」ですね。もちろん言語化しても構わない訳で、柳沢さんは短歌を詠まれます。
そして著者は釈迦の「人生は苦なリ」という言葉に至ります。いかに自己を超えたとしても、人生は過酷なものであり、「生老病死」という苦に満ちています。だからこそ「人生は苦である」と受け入れてしまえば、逆説的に喜びに満ちていることが見えてくる、と。
「生きる」ということを追求してきた著者の思索は終盤に入り、死の考察に入ります。安楽死について、尊厳死について。痴呆について、終末医療について。 それぞれ「生きる」という立場から発言がなされています。 それぞれについて『いのちは宇宙におかえしするもの』というのが著者の基本的な態度でありました。
そして最終章で本当の癒しとはなにか、と著者は問いかけてきます。 ここはこの本の結論でもある部分をそのまま紹介します。
『しかし、医学にできることはほんの少ししかない。目の前の病人になすべきことをし尽くしてしまい、もはや何の手段もなくなったときにはじめて、医師も看護婦も他の人々も死にゆく人と同じ地平に立てるのではないだろうか。 同じ無力な人間となって、人間の限界に涙するときに、両方の心に通い合うものがあるはずである。そのときにはじめて、苦しむ人、死に向かい合う人の孤独を癒す力が与えられる。 宇宙の底になすすべもなく震えあう二人の人間。二人の間に流れる共感こそが宇宙に帰ろうとしているひとの怖れと寂しさを慰めてくれる。人間は生まれながらにして社会性をもち、社会性をはぐくみながら生きている。この世に別れを告げるときの究極の社会性は、みずからの貧しさを知った謙虚な人によってのみ満たされるものであると私は考えている』
なんと力強い宣言であることか。もはやこの先は言語の外になるのでしょう。 弱さを知ること。自分がいかに小さな存在であるかを知ること。そしてただその「人」がより添うこと。それだけが「癒し」とよべるのだと。
この結論へ至る壮大なマップを辿ってきたという実感があります。人は大きく、そしてとても小さい。自らを無にすることの知恵を、先人たちは歴史上に現れては「人」に告げてきたのだな、と。そんな感慨につつまれる本でもあります。
*尚、柳澤さんは1999年、新薬の投与により奇跡的に回復に向かわれました。 著書も多数あります。
「癒されて生きる」…女性生命科学者の心の旅路… 著者 柳澤桂子 岩波書店(1400円)
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