梅雨明けのような激しい雨が降り、家の中でずっと読書。 「一月物語」(いちげつものがたり)・平野啓一郎を読了。
時は明治30年。場所は奈良・十津川村周辺の熊野。知っている場所だし、去年ゴザンスに書いたことのある「怖い話」の舞台と同じだからすぐにイメージはできました。
妖しい女、青年詩人、謎の僧、それに長い語り部として登場する旅館の女将。それだけの限られた登場人物。 一貫している蛇のイメージ、熊野の自然、川の流れ、アゲハチョウ、そして月。それらを含めた圧倒的で制御不能、かつ不可解な自然の強大な力。
細かなシーンのひとつひとつが美しく、強烈な印象を残します。だから魅入られたように前へ前へと読み進みます。この物語にはそんな強い駆動力が備わっていました。
「道成寺」のようにも読めます。ただし男女の立場が逆転していますが。 そうだとしても、舞台といい展開といい、まさに「能」の「娘道成寺」を思わせます。
そして、平野啓一郎という作家の考えかたが主人公の青年詩人の言葉として何度か登場します。例えばこんな台詞
『真に生きていると感ずる為には、漸々と日々を積み重ね、しかしてその果てに得られる所のものを期するというのではなく、何かしら瞬間の超越、持続しない、一個の純粋な昂揚を、一撃の下に、生活の全てを打ち破って顧みぬような苛烈な衝動を体験せねばならなかった』
主人公はこの台詞そのままに、熊野の山の中に死んでいきます。屍すら見つからない。このくだりはこの作家の基本的な考えかたとして受け取りました。そして、確かにこのように願い、生きることもあるのだろうとは思います。
そのように生きて、そのように死んでいく。そこに美を見ようとする。 「道行き」とはそういうものだと思います。
一方、その場にじっと立ち尽くすことで見えてくるものを書く文学もあるのだけれど、どこか違うのでしょう。 実は「どう生きるか」と模索しながら書き始める文学と「どう生きたか」と終わりから逆算する文学がある気がしています。
自分の中に平野さんの作品に響く部分があることに気のついた読書体験でした。 一つ一つのシーンは素晴らしく、「擬古典体」と呼ばれる文章も抜群のキレを見せています。
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