| 2004年07月07日(水) |
創作の流儀 保坂さん編 |
京都新聞の不定期連載のコラムに「創作の流儀」というのがあって、これまでもさまざまな作家の方が登場してこられました。 今回はその5回目…。 おおなんと、保坂和志さんではありませんか!!
保坂さんの著作は文庫本を中心にほとんど揃っています。で、ぼくのまわりでは圧倒的に評価が高い。ぼくが村上春樹氏を読んでたりしたら、「そんなん読まんとこっちを読め」と言われることが多かったし、今でもそうです。 まぁ「そんなん」と言われてもね…。その「こっち」がたいてい保坂さんの本でした。
その人たちがぼくに保坂さんをすすめる理由は要約するとただ一つ。 「この人は、まともやで」
そんな得がたい友人たちのおかげで、ぼくは保坂さんの著作を読み進めて来たのです。最近は「書きあぐねている人のための小説入門」が話題になり、よく売れています。今回の記事もその「書きあぐ」をベースにした取材構成の形をとっていました。
ぼくにしてみれば「書きあぐ」をはずしても、関係なく読めたし、響いてきたメッセージでした。 「 」でくくられた保坂さんの言葉を全部書きだしてもいいんですが、またうるさい人もいるかな…。でも、例えばこんな言葉
「小説家になるというのは、ただ自分の信じる方向に突き進むドン・キホーテになること。サンチョ・パンサみたいにそれを批判して狂気を検証し、冷笑的だというのが世間一般では知的と思われるけれど、その部分で止まっていたら小説は絶対に書けない。どこに向かうかよくわからなくても、向かう意志がない限り書けない」
小説をとおしてなにかを考えるのが保坂さんにとっての小説であるという言葉以上に、小説を書くことに対するポジティブな言葉をぼくは思いつかないです。 「思う」ことを止めて「考え」続けているからです。
とにかく徹頭徹尾、小説の事を考え続ける事。それしかないですね。 考えては書き、書いては考える。その繰り返し。
で、わざわざ別の囲いを作って作家志望の方への具体的なアドバイスが二点。 「外国の小説を読む」 「いろんな国の、いろんな時代の小説を読むと、題材にはこんなに広がりがあるということがわかる。そうやって『小説とはなにか』を考えることが、デビュー後の何十年かを支える」 「長い小説を読む」 「長いものを読む態勢で、自分の小説も腰を据えて書けるように、自然となっていきます」
「きちんとさせるまではとどまろうという気持ちがあり、自分の書いている小説の世界にどれだけ長い時間いられるかが、小説家の資質です」
で、前述の友人がくしくも今日、言っていたのが「読む本がなくなったからなにか長いのでも読もうかな」…。 まったくこの人が作家になったらどうだろうと思うんだけれど、この人が見こんでいるのがぼくだというところが、なんとも…。
長いの、というと反射的に「カラ兄」が出ますね。「カラマーゾフの兄弟」。 これは何回か挫折しています。ほかに長編小説はないかな。ロシアとアメリカだけじゃつまんないし。ヨーロッパの長編小説を探したい気分です。
ところで詩人というのも、そういう存在です。徹頭徹尾、詩のことしか考えない。 海外の詩を読んで見たいとも思っています。 ただ、ぼくの興味は絵画や音楽のほうへと向いていて、絵画や音楽のように言葉を使う。そのことを考え続けたいです。何故そうなのか、ということも考えています。題材を普通の生活のなかからとリだしつづけながら。
いずれにしても、 「何かを考えるために言葉を使うわけだから、今まである言葉をつかうと、今まである考えになってしまう。それでは不十分だと思うから、小説は文章の型を使わずに、自分で考えながら書く」 わけなのだ。「小説」のところを「詩」と置き換えても、充分に了解できる言葉です。
書くことばかり考えているわけですが、もっと自分を本当の意味で信じたいですね。
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