| 2004年06月09日(水) |
もう一度キース・ジャレット |
今日も変わらずに夜がやって来て、一日が終わろうとしている。
こんなふうに書くと、まるで立ち止まった人みたいだ。 「立ち止まった」…確かにそうかもしれない。だけど、それは舵を切るためのもの。 そんな気がしている。
長らく聴かなかった音楽を一日中聴いていた。 それはECMの音楽。ジャズを聴く人の中でこのレーベルに対する評価は真っ二つにわかれていると思う。代表するアーティストはソロのキース・ジャレット。
昨日書いたキースのDEATHandFLOWERは「インパルス」というジャズの老舗レーベルでの作品。そのあたりはキースも意識していて、ソロのインプロヴィゼーションに限っては、ドイツのECMレーベルに足跡を残している。
ECMレーベルというのはキース・ジャレットのソロで、全世界から注目を浴びたレーベルだけれど、実はマンフレッド・アイヒャーという男が一人でやっているレーベル。彼が企画立案マネージをして、あとは全て外注しているようなんだ。
できたのが1969年。そこでキース・ジャレットが始めたのがまったくのソロピアノの即興演奏。なんの設定もなしのインプロヴィゼーションという手法。テーマすら持たない。それがキースに限ってはこの上なく美しい音楽となって結実した。 もちろんあんなものはジャズじゃない、という猛烈な反発もあったし、「即興」とはもっと不協和音とアヴァンギャルド「であるべき」だという奇妙な主張もあった。(「であるべき」と言ってしまえばそれですでに「即興」ではない)
つまるところ聞き手がどう考えるか、だけのことなんだけれど、たんに「黒くない」という理由なら、確かに狭義のジャズじゃない。キース・ジャレットの音楽はそれを飛び越えている。
ぼくはジャズが好きだけれど、だからといって好きな音楽に垣根を作りたくはない。いいものはいい。好きなものは好きだ。
ジャズが好きということでは有名な村上春樹さんもキースだけは聴かない(と思う)。そこがぼくと違う。ぼくは聴く。だからぼくは村上春樹さんとは明白に違う趣味を持っているわけだ。実はそれでほっとしている。彼が語るジャズの名盤のほとんどはぼくの趣味と一致しているんだ。それだとつまらない。彼の著作は大好きだけれど、最近、趣味の違いがあることを喜ぶようになってきた。 へそまがり?。そうじゃないと思う。
以前は違っていた。正直に言えば、たとえば大好きな詩人なり小説家が自分と違う趣味を持っていたりしたらがっかりしてた。それは単純な自己同一化。「子供」だよ。いつごろからかそれが変わりだし、自分の好きなものを持っていることを恥じなくなったんだね。 良し悪しじゃなくて好き嫌いだから、どうということは無いんだけれど。
どうということはなくても、その音楽の持つ内的なパワーが自分の精神的な作業とシンクロするとなると、話しは少し違ってくる。 で、きのうキースの旧作を聴いた後、「ケルンコンサート」を聴いたんだ。すると今、ぼくが求めていた音楽はこれだったということに気がついた。たぶん「パリコンサート」もそうだろうと思う。
CDラックのハービー・ハンコックの作品群の隣にキースのコーナーがあって、長らく手をつけていなかった。スタンダード・トリオやカムバック後のソロは聴いても、コンセントレーションの極みのようなかつてのソロ・インプロヴィゼーションには手をつける気も起こらなかった。ハンコックはよく聴いたけれど。
「ケルンコンサート」を久しぶりに聴いて、自分がどれほどキース・ジャレットを好きだったのか思い出した。それにしても何故聴かなくなったんだろう。何故…。
しばらくして思い当たったのは、「聴ける自分」に戻ったということ。だとしたらとてつもなく長い「不在」がぼくにはあったということになる。あるいは自分というものを粉々に砕いていた時期があったと…。
あるジャズの店。ぼくがいくとマスターが黙って必ずかけてくれるLPがあった。20代のいつのころだろう…。それはマイルスでもコルトレーンでもなくキース・ジャレットのサムウェア・ビフォアだった。あのころの自分…。今になって戻ってきたのだろうか。
とにかくクリアになる。いいね。 もう一つの何故がある。 どうして突然、キース・ジャレツトを聴きなおそうと思ったんだろう? それが全然わからない。
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