散歩主義

2004年01月29日(木) 【読後感想文】「蹴りたい背中」を読んで

 …いろんなものを蹴り飛ばしたなぁ…
 これが、読み終えた直後の感想。それは爽やかで、だからこそ、この若き作者の次回作はなんだろうと、とても興味を持ちました。

 小説の軸には「さみしさの塊」があるようにイメージしました。「さみしさ」を扱いかねて、あるいは対処すべく高校生たちは自分や「関係」と格闘しています。しかし、高校生活が素材とされてはいるものの、様々な位相からの読みこみやイメージができる広がりは十分にがあるように思えます。
 それは主人公ハツの独白が多く、そして彼女が見つめていることのほとんどが、どう生きようとも人間は関係の中を生きていくしかないことへの、抗いや諦めや苦々しい気持ちであったりするからです。結局、彼女はこの鬱陶しい自分も「蹴り飛ばしている」と思うんですが。

実は彼女は無意識のうちに「関係」を断ちながらも、熱望もしてもいるのです。「熱望している」と、彼女はそぶりすら見せようとしませんが、同じくクラス内で疎外されている(かにみえる)「にな川」との出会いと、付合っていく中での様々な所にこぼれているように思えました。

 「にな川」は「オタク」です。モデルの「オリチャン」の熱烈なファンで、彼のその徹底的なオタクぶりが詳細に描かれます。
 主人公に背中を蹴られるのはこの男です。
 ぼくも、蹴りたい気持ちわかります。はは。
 さみしさの内側に篭る事で生きようとする事への嫌悪が正直に現れます。

 もうひとり重要な登場人物に絹代という中学時代の親友がいますが、中学時代に、グループでつるんでいた事へのしんどさから、もうグループは二度とごめんだと思っている主人公とは違い、絹代はクラス内での位置を獲得すべくグループの中にはいっていきます。クラスでは主人公ハツにとって彼女が唯一の友人といってよい状況です。しかし、ハツは自分自身を他者に擦り合わすような事を、よくも平気でできるものだと絹代をみています。

 そういう意味でのキーワード
『余りものはいやだけど、グループはもっといやだ』
群れるのがいやなんです。自分自身を損ないたくない、という強い気持ち、ですね。
それと自分はリアルであり、「にな川」はそれから逃げている、という自負もあります。主人公はモデルの生のオリチャンとあったことも口を聞いた事もあるのに比べ、「にな川」は『オリチャンから与えられるオリチャン情報』をありがたがっているだけなんだ、と。
 
 しかし、そのようなプライドも作者は巧妙に崩していきます。

 詰めて言えば、何も見ていないと思っている「にな川」は、しっかりと主人公の言葉や行動を捉えていて、その鼻もちならないプライドの趣味の悪さを、さらりと指摘するし、絹代は、自分の事しか見ていないために、他者との関係に躓く主人公の「ありかた」を指摘します。
 そしてぼくが大事だなと思ったキーワードをハツは呟きます。
『自分の内側ばかりみているから、何も覚えていない』
 そういう自己認識は
『人にして欲しいことばっかりなんだ。人にやってあげたい事なんて何一つ思い浮かばないくせに』という独白に至ります。

 後半のライヴに三人でいくシーンがいいです。特に会場に走っていく部分の描写がとても素敵でした。
 そういえばこの小説は走るシーンがとても多いのと、主人公が走る事が大好きなことが特徴的です。
 このライブの一日の描写はいろんな意味を作品に与えています。三人は三人そのままで、しかしひとつの「関係」が出来上がっているのです。絹代は相変わらずの絹代だし、相変わらず「ハツ」は「にな川」の背中を蹴りたいのです。
もっと苦しめ、と。 …が、しかし決定的に違う何かが生まれています。
その意味は読まないと汲めないので、ここでは書きません。
 
たしかに「孤立した存在」であろう人間をどう考えるか、冒頭の行がとても象徴的です。
『さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞えないように、私はプリントを指でちぎる』

 そこから始まり、自らと他者を認識し、蹴るべきは蹴り、あるいは蹴られ(いろんな意味で)、最後は前に向かって、未来に向かって広がった形で終わっていること。(だから次が読みたい、と思ったのかも)
 そのことにとても好感を覚えました。
 ぼくはこの小説が好きです。

「蹴りたい背中」綿矢りさ・河出書房新社


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