| 2004年01月28日(水) |
「準備はできていた」のかな? |
昨日から綿矢りささんの「蹴りたい背中」を読み始めています。 各書店、売り切れ続出なので、手にはいるかなと思っていたんですが、やはり地元はしっかり買い占めてましたね。(出身高校近くの本屋さんでget!)
江國香織さんの「号泣する準備はできていた」も市内の主だった書店では売り切れ。ネットでも重版待ち。 こういう時は、たいてい普通の、ごくごく普通の街の本屋さんにあるもので、案の定スーパーマーケットの二階の本屋さんにありました。
京極さんの作品もあります。手に入らなかったのは金原さんの「蛇にピアス」のみ。
とりあえず、綿矢、江國のニ冊から芥川、直木、両受賞作を読んでいく準備ができたわけです。 まだ最後まで読んでいないんですけれど、綿矢さんの作品は「既読感」に時折襲われるんですよね。 なんだろうな、と首をひねっているんですが、理由がわかりません。 19歳というのは、素材の扱い方に(あぁそうなのか)と思わせる部分があって、それが新鮮。
技術的には歳がどうこうと言うのはまったく関係ないと最初から思っていました。小説家を志す誰とも同じように、綿矢さんも日々書き続けているんだろうなと思うばかりです。 今半分ぐらい。もうすぐ読み終えます。
一つ思ったのは、この作品は「小説の歴史の流れ」に乗っているな、という感覚です。綿々と続く日本文学の流れの上に乗っている、という感覚。 それはたぶん、彼女の読書の量と質に正比例しているのだろうな、と。
本をたくさん読んだからといって、優れた作家になれる訳ではないですが、本を読まない人は小説家にはなれません。 彼女の作品の何気ない言いまわしに、彼女の経験が滲み出ているんだろうなというのは読書家なら、或いはどの作家にも抱く感想かも知れませんね。
江國さんのほうは、もともと好きな作家ですから、一読して「江國さんらしい」と。心の動き方、道具立て、ふうむとおもうところなど、ぜんぶ「らしい」。 変ないい方かもしれませんが「安心して読んでいける」のです。
江國さんはじっくり生活を組みたて、愛しながら、自分のペースで物語を紡いでおられるのではないかな、と思います。 表紙に小さい女の子が描かれているのですが、作者はこの子と語らっていたようですよ。 京都新聞での受賞を受けてのエッセイに書いてありました。江國さんは「本」が大好きなんですね。「本というモノ」が。 なんだか、受賞は彼女の本に寄せる信頼が報われたような気がしました。
本と物語と詩と、それらを含めて文学ということが許されるのならば、彼女はこよなく文学を愛しています。だから、愛が報われたともいえる気がします。 こういうようにひとつひとつ、丁寧に物語を紡ぐ事ができれば。 ぼくの目標です。
さて、ぼくの「光函」ですが、もう少しでレイアウトができあがります。 また緊張感が高まってきているのですが、フィニッシュの言葉にもう一度、全神経を集中してあたりたいと思います。 それができればぼくの作業は終わりです。
もう一息です。
セロニアス・モンク「セロニアス・ヒムセルフ」を聴きながら。 おやすみなさい。
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