| 2003年10月26日(日) |
1日中書きつづけ…。 |
こんなに天気がいい日なのに、ずっとなにやら書きつづけていました。 ゴザンスの800字の構想からアップまで。それとほんとはここに書こうと思って用意した原稿。それからウォン・ウィンツァンさんの「海より遠く」のレヴュー。 で、最後にここに戻ってきました。ブログの方にも書かないといけないんですが、なかなか書けないで、話がアタマの中でぐるぐる旋回しています。
800字は女の子が主人公です。その事を書こうと思って、800字の前にさらさらメモみたいに書いた記事があるんです。どうしようかな。 うーん、やはりボツにしないで出してしまおう…。Just be a womanというタイトルなんです。ちょっとコピーしてきて貼りつけますね。少し待ってて下さい。
はいっ、午前中に書いた記事です。 ↓
Just be a woman
ぼくがボブ・ディランの「just like a woman」を聴いたのは いつだったろうか。単純なフェミニンな歌じゃない。女性的な感性を持たなければ人生は、あるいは世界は壊れてしまう。それぐらいのアイロニカルな危機感を歌の背後に感じた歌だった。 その歌が日本のシンガーに与えた影響も深い。いちばん端的なのは加川良の「女の腐ったやつで結構です」というフレーズかな。
女性的な感性ってなんだろう、と考えたところで男だから100%わかるなんてありえない。ありえないけれど女の子の詩を書けば「その女の子」のことはすぐにわかる。「降りていけば」女性の自分に出会えるから。 実はこれは松本隆さんのお話から教えてもらったこと。 「はつぴいえんど」でぼくを夢中にせた詩人の彼が、松田聖子の詞をはじめ、女性歌手の詞をつぎつぎと発表し、女性の圧倒的な支持を受けた。アイドルのファンで、そこから松本さんの詞にひかれた人もいるだろう。だけど、ここで松本隆という詩人を読まなくなった人たちも多い。
ファンになった人と、去った人と。だけど言う事は同じだった。 「何故、あんなに女の子の事がわかる詞がかけるんですか」 (何故、あんな女の詞がかけるんだ) 今になってはっきりわかる。ロックファンで( )の台詞を吐いた人は、少なくともアクエリアス・エイジになるチャンスを捨てたんだ。ボブ・ディランの歌を全然わかっていなかったとも言える。彼がプロだから書けたんだ、というのは二次的なもので、あそこまでの支持を得られたということは、とこまで深く自分の中に降りていったかを感じるべきなんだと思う。
(そう、基本的にぼくも松本さんと同じ考えで、瞑想しながら人間の心理というか心の根っこにまで行けば、性差は消えます。一人の人格のなかに女性性と男性は両方ともあるものだと考えています。実際に自分で創作するときには登場する女の子にならなければ書けないですからね。で、なれるんです。)
確かにプロの作詞家なら女性歌手の歌は書けるだろうけれど、それは観察とディテールによる外側からのアプローチを感じるものが多い。「内側」から響いてこないというか。
ずっとゴザンスの記事を書いてきて気がついた事がある。 800字、題の言葉三つを必ず入れる、という課題があるのだが、例えば「おとうさん」「おかあさん」となることがある。「父」「母」ではなく。 言葉は厳密に指定されているから「おとうさん」を「父」と言い変えてはいけない。 すると「おとうさん」という言葉を発する「男」というのが自由に想定しずらくなる。女性の場合はどんな年齢でもどんな職業でも自由にできる。 だから逆に言うと「男」を主人公にした方が設定も絞りやすい。そのぶんつまらない。なんだ、男って狭いなあと思う。
中年男性に「おとうさん」という台詞を吐かせて見せたりするのもいいんだろうけれど。ぼくは女性を主人公がすることのほうが抵抗がない。
「just be a woman」これはレニー・クラヴィッツの曲。 「女のように」じゃないものね「女でいて」だもの。だけど注意して欲しいのは、この歌は、自分がどうあれば良いのか悩む、女性の恋人に対して歌ったものだということ。 「男性優位」の振り子が戻ってきて、さらに逆にふれ過ぎた時代さえもう終わったということ。すくなくとも世界の多くでは。(日本ではまだ疑問符がつくけど)
スピリチュアルである事、フェミニンであることはもう、あたりまえの時代になったんだと思う。
というような記事を書いてから、800字へ向かったのでした。ゴザンスで読めます。タイトルは「アイロン」です。
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