散歩主義

2003年10月22日(水) 無について


昨日の京都新聞夕刊に花園大学教授・安永祖堂さんの連載「禅ぜんZEN」が載ってました。それが面白かったので紹介しましょう。
ちなみに花園大学と言うのは禅の大きな宗派である妙心寺派のつくった学校法人です。
タイトルは「空と無」。仏教でよく使われる「すべては空である」あるいは「すべては空しい」という言葉をめぐっての論考です。

話は意外にもキリスト教から始まります。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という章があります。これに興味を持って聖書を読み出す人も多いそうですね。ちなみに、カソリック教会での結婚式で必ず朗読されるのが「コリント人への手紙」。かくいうぼくも、友人の結婚式でクリスチャンでは無いにもかかわらず朗読を任されて、教会で声を張り上げたことがあります。

この「コリント人への手紙」は最初から最後まで「愛」について書かれた手紙で、「愛」という言葉がこれでもかというほど登場します。これはこれで読んでいて凄いなァと思いましたが…。
それに対してエルサレムに住む名も無き老賢者が書いたという「コレヘトの言葉」は、「空しい」という言葉が38回出てきます。
旧約聖書に「空しい」という言葉は73回出てくるそうなので、半分以上はここに出てくるのです。
『なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい』。と、いうように。

仏教だけでなく、キリスト教にも「空しい」という説教があるんですね。
ここで安永さんが強調されるのが、「ゼロの強さ」というか「ポジティブなゼロ」ということ。
「すべては空しい」と言ったとき、「すべては空しい」という言葉も「空しい」わけです。ということは「空しい」ということは「ない」ということになります。ニヒリズムではないのです。

「ある」と「ない」の堂々めぐりの世界。0というのは凄いです。+10、+100といくらでも足していけます。−10、−100といくらでも引けます。つまり「ゼロとは無限」ということなんです。

同じように、「ある」「ない」の世界から離れよというのが仏教だとして、「ある」「ない」を超えているのが「空」です。で、禅宗ではそれを「無」というのだそうです。つまるところ「ある」「ない」から離れることで得られる境地をめざすのかな?たぶんそうだと思います。

その「無」ということの、実際的な例がおもしろい。(禅は理屈にあらず)この部分を引用しましょう

……扇風機の羽根を思いだしてみてください。電源がオフのとき、3枚だか4枚だかの羽根はちゃんと見えていますね。しかし、スイッチをオンにして羽根が回転しはじめたらどうでしょう。強い風が欲しいので全速で回転させたら、一枚一枚の羽根は見えますか?羽にさわれますか?その時、扇風機の羽根は「あって、なく」、「なくてある」のです。
 同じように、あなたがなすべき仕事に一心不乱に集中しているとき、自分を忘れていることがあるでしょう。
 まさにそれが禅の言う「無の境地」の入り口なのです。……

 だからどう、という話ではありません。
自分が何を求めているのか。求めていることすら忘れてしまうとき、自分のことさえ忘れてしまうとき、案外、扉は開いているものかもしれません。「案の外」というぐらいですからね。
そんなことを考えていました。


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