斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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「ポスト知識社会」について調べてみようと思った。 Googleに「ポスト知識社会」と、入力。
検索結果で表示される結果は僕のサイトのみ・・・。 あーっ、まただ。 以前書いた「リバーススマイルカーブ」も自分のサイトしか表示されなかったのだけれど、「ポスト知識社会」も僕の造語であるようだ。 「ポスト知識社会」は、超のつく一般用語に見えるので、僕は、日常的に使っていた。 調べものをしている時に自分のサイトしか表示されなかったり、自分のサイトがGoogleで一番うえに表示される事は多い。 だけど、ここまで一般用語っぽい言葉が自分のオリジナルであったことに少々驚いた。
と、いうことで「ポスト知識社会」という言葉は、僕のオリジナルであるようなので、またもや勝手に定義しておく。
■ポスト知識社会 オクノ総研総裁が勝手に使い始めた造語。検索エンジンやメッセンジャー、ブログなどのネットの普及により、「知識」がクソの役にもたたなくなってしまう社会を指す。現代においては、脳に多くの「知識」を詰め込んでも、「知識」を外部化した段階で、瞬時に検索され、伝搬され、並列化され、付加価値を失う。地理、時間、記憶力などによる知識の差異が限りなくゼロに近づく。20世紀は「知識社会」であったが、21世紀は「ポスト知識社会」とされる。「ポスト知識社会」においては、知識の差は秒の単位で埋められるため、「知識」を超える付加価値の提供が重要となる。
「知識社会」というキーワードは、ピーター・ドラッカーの「知識社会」やレスター・サローの「知識資本主義」で語られた。 僕の言う「ポスト知識社会」というキーワードの持つ意味は、それほど新しいものだとは思わない。 多くの戦略は、既に「ポスト知識社会」を前提として作られている。 言葉がなかっただけだ。 僕にとって、「ポスト知識社会」というキーワードは所与のものであったからこそ、Googleの検索結果に自分のサイトしか出てこなかったことに驚きをおぼえたのだ。
僕は、「知識」は力を失いつつあるのではないか、と思う。 世の中の小難しい知識も理論も、ネットで検索すれば、簡単に解説されているサイトを瞬時に見つけることができる。 時間をかけてお勉強する必要はない。 僕の代わりにお勉強をしてくれているサイトを見つければ良い。
僕は、思いついたことを節操なく、社内外を問わずに外部化するように努めている。 暗黙知は、形式知化させる。 見えない知識は、可視化させる。 外部記憶化可能な情報は、検索可能にさせる。
僕にとって、知識のあるなしは、「既に知っていた」か「数秒後に知る」かに過ぎない。 検索サイトで知識を得られなかったとしても、知識を既に得ている「人」にメッセンジャーで接続していまえばいい。 僕は、瞬時に並列化されてしまうようなレベルの「知識」は、自分から外部に発信し、外部記憶化してしまえ、と思う。 ソースごとオープンにしてしまえ。 知識も情報も自分のなかに溜め込み、記憶のなかに押しとどめていても何の価値も生み出さない。 知識なんてコモディティーだ。 僕は、「ポスト知識社会」においては、知識は既に価値を失っている、もしくは簡単に価値を失う存在である、と考えているので、知識の独占といった無駄なあがきをせず、外部記憶化させる。
「知識」という言葉だと幅が広すぎるので、もう少し限定してみる。 とりあえず、特許、著作権の対象とされる知識とする。 「知識社会」で生き残るためには「知識」を特許や著作権で保護する必要がある。 現在は、「クローズドな知識(知識社会)」と「オープンな知識(ポスト知識社会)」が対立構造を取っているようにも見える。
・ソフトウエア:オープンソース VS プロプライエタリ ・ハードウエア:ホワイトボックス VS ブラックボックス ・メディア :インターネット VS 既存メディア
「知識社会」と「ポスト知識社会」は対立概念的ではあるが、実際に「知識社会」が「ポスト知識社会」に完全に移行してしまうと、社会経済は立ち行かなくなる。 「知識社会」と「ポスト知識社会」は共存の道を探らなくてはならない。 「完全なるポスト知識社会」は、付加価値を生み出してもそれを財へと昇華させていく術がない。
「ポスト知識社会」では、分散された知識をアグリゲートすることによって付加価値を生むか、集約された知識を元に新たなる知識を生み出すか。 だが、それも難しい。 付加価値を持った知識も、瞬時に伝搬され、並列化される。
知識が付加価値を失うことに対する恐怖は、知識が特許や著作権を使って、「過度」に保護されてしまう可能性を持つ。 過度な保護は、エコシステム全体にとっては、発展の妨げとなる。
一方で、全く知識が保護されないと、知識は財を生み出さすことができなくなり、知識の発展に対する資本の注入がなくなってしまう。 「知識社会」と「ポスト知識社会」のバランス、着地点を探り続けることが必要なのだ。
外部記憶が高度に進化し、極大化に向かうなかで、僕たちの脳には何が残るのだろう? 僕に残ったのは「好奇心」だけだった。
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