斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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2004年10月22日(金) |
外部記憶依存症とポスト知識社会 |
僕は外部記憶依存症である。 単体の生物としての僕の記憶力は高いとは言えない。 僕はネットワーク上に存在する記憶で脳を補完することによって、何とか存在している。 僕はもともと記憶力というものに大した重きを置かずに生きてきた。 学生時代にも記憶力を鍛えることをしてこなかった。 おかげで学歴社会の落ちこぼれである。
僕は、自宅にいる際にはPCの電源は入れっぱなし。 いつでもGoogleで検索可能な状態にしてある。 テレビを見ながらでも疑問があれば、Googleで検索を行う。 外に出かける際にも基本的にPCを持って行く。 何か疑問があれば、即座にVAIO Extremeを起動し、AirH"でネットワークに接続し、検索する。 VAIO Extremeはシャットダウンせず、休止状態で持ち歩くので、起動は早い。 クライアントとのディスカッションの際でもPCはネットに接続した状態で行っている。 ディスカッションの際に出てきた疑問に対しても、その場で検索し、答えを探る。
学生がテストでカンニングをすることは、罪だけれど、本当にそうか?と思う。 Googleに接続したPC持ち込み可の試験があっても良いはずだ。 知識よりも、思考力や知識を統合する能力をトレーニングするほうが良いと思う。 断片化した知識を無意味に詰め込むことに価値があるとは思えない。 これからの人間にとって重要なのは、フラグメントした記憶、知識を統合する能力である。 フラグメントした知識は無限に存在し、いつでもどこでも容易に入手可能なのだ。 フラグメントした知識を統合し、意味をもたらし、何かを生み出すことがこれからの脳に求められる機能である。 ポスト知識社会と言っても良い。
もちろん記憶力が強いことは大切だ。 記憶力は重要だし、否定するものではない。 記憶力を鍛える教育は必要である。 だけど、記憶力や知識は外部記憶によって補うことができる。 外部記憶によって記憶力や知識の補完が可能なのであれば、外部記憶をうまく活用することも考える必要があると思う。 ネットワークによる外部記憶が当たり前になった世界においては、記憶力そのものよりも、記憶や知識に意味を持たせることが、人間の生体としての脳の主たる役割になるのだと思う。
たぶん僕は外部記憶依存症だ。 だけど、脳はメモリとしての記憶デバイスではなく、CPUとして記憶や知識を統合し、何かを生み出すことが求められているのだと思う。 人間の脳はフラッシュメモリ程度の記憶領域を持てば、外部記憶の補完によって、じゅうぶんに力を発揮することができる。 テクノロジーの進化により、人間の脳の記憶力の補完が可能になったことにより、人間の脳の使いかた、教育のありかたも変化するべきなのではないか、と思う。 小学校、中学校、大学、社会人と教育レベルが上がるにしたがって、記憶力主体の学習から、知識や記憶力の統合化、外部記憶の活用に重点を置くべきだ。
今はまだ外部記憶に過度に頼ることは難しいのかも知れない。 だけど、記憶力主体の脳力では生きていけないポスト知識社会に変化しつつある。
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