斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
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2002年10月07日(月) |
「○○プレイ」とはすなわち「悟り」ではないのか? |
「○○プレイ」って実は「悟り」なんじゃないのか?
「羞恥プレイ」、「放置プレイ」、「赤ちゃんプレイ」。 みうらじゅんによるところの「親孝行プレイ」。
つまりだ。 どんなイヤな事であっても、これは「プレイ」だと思い込めば、あら不思議。 エンターテインメントに変わってしまうワケだ。
人前で人から罵られたり、恥をかかされたら「これは羞恥プレイだ。もっと罵ってくれい」。 誰からも相手にされなかったり、無視されたら「あああああ、放置プレイか。ああ、幸せ」。 人から叱られても「もっと叱ってくれーー」。
僕は窮地に陥ったら「これはプレイだ。楽しまなくては」と考えるようにしている。 単なる変態と何も違わないのだが、これは一種の「悟り」でもある。
いわゆる宗教的な話を読んだり聞いたりして思うのは、宗教的偉人は皆さん「プレイ好き」って事だ。 岩穴や社にひきこもってみたり、山を何日も駆け巡ったり、断食してみたり。 荒行なんて「プレイ」以外のナニモノでもない。
「プレイ」とは、すなわち「悟り」なのではないのか? またその逆も真なり。 「悟り」とはすなわち「プレイ」である。
もっ、もしかして、僕って凄いことに気づいてしまったのかあっ?
人類は「プレイ」によって救われる。
追記; 僕は宗教的、哲学的大発見をしてしまった。 世の中にはきっと他にも気づいている人がきっといると思った。 Googleで"宗教プレイ"を検索してみた。
・・・・。
SMサイトが一件だけヒットした。
しかもリンク切れ。
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