2005年09月14日(水) |
選対解散式と藤井先生の決断 |
急遽、本日の19時より市民会館会議室「民主党ふじい裕久選対」の解散式を行いました。
敗戦を受けてのことであり、些か混乱した状態から抜け出せていないので、連絡等の不行き届きがあったようですが、200名近くの方が集まって下さいました。
各選対からの挨拶と報告の後、藤井裕久先生が挨拶をしました。
その中で、政界からの引退を表明されました。「立候補はしない」との意味です。
「党執行部としての責任と、この選挙結果を天の配剤と受け止めて」と述べられていました。
式の司会をしていましたが、胸が一杯になりました。
思い起こせば、学生だった平成2年4月に事務所に入所させてもらって以来であります。様々な思い出があり、薫陶を受けました。仲人もしていただきました。至らないことばかりでしたが、お世話になり続けました。
私が携わることができた藤井先生の選挙は5回です。
平成5年選挙は、6月18日の宮沢内閣不信任成立・自民党離党での選挙。学生の分際ですが事務の一部をやらしてもらいました。異様な高鳴りを持っていたのを覚えています。
平成8年選挙は、横浜担当の秘書をしていましたが、叔父の市長選挙出馬表明により手伝いのため休職中でした。秘書の立場ではないので、主に街宣局の下働きをしました。朝5時に事務所に行き宣車の掃除から始まり、夜は1時すぎまでの毎日でした。初の小選挙区制でした。
平成12年選挙は、市議会議員となっていました。街宣局と事務局のことをやりました。自由党での選挙です。本人不在が多く、小さな政党でもあり、大変厳しい事前予測でしたが、1,100票の僅差で当選しました。議会との両立の難しさを感じました。
平成15年選挙は、自由党と民主党の合併がありました。事務局に入り文字通り様々な事務を行いました。広報関係を本格的に扱ったのも、個人演説会で初めて応援演説をしたのもこの選挙です。
そして、今回です。
昔、運転手をさせてもらった時期があります。運転をしながら質問をすると、何でも答えてくれました。どんな些事にでもです。今思えば、そのことが私自身一番の糧になっていると思います。書ききれないほどのことを学びました。
正直、「子分」などと自分では言っていましたが、申し訳ないくらい凄い方です。偉大な方です。国家の逸材だと思っています。ですが、「親分の了承を得ず子分にはなれる」と勝手に解釈してズーっと通しています。そして今後もです。
私は「意思を継ぐ」などとはとても言えるほどの者ではありませんし、言うまでもなく遠くおよびません。しかし、少なくとも「近くで見ていた」「一端を受け継いでいる」と自負をしています。非才ですが、少しでも近づけるよう頑張るしかありませんし、基礎にして自らの物を確立していきたいと思っています。
さて、藤井先生の以後ですが・・・話によると、何もしないのではなく、今までと変わらぬ主張と信念を持って、後身の指導を行うことを含めて活動していくとのこと・・・。些かホッとしています。
上手く書くことができませんでしたが、兎に角、「お疲れさまでした」と「ありがとうございました」の気持ちで一杯です。
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