99745..チェリー
介護というもの
2003年04月10日(木)
あちこちが、痛い。もー限界寸前。
移動の度に、抱かれること、持たれること、自体、苦痛。。。
バルンを抜去してから、トイレへの移動が、介助してくれる家族ともども、疲れ果ててしまっていく。。。
自己導尿も、めんどーになってきたし・・・汗
お水も、「飲む=おしっこ生成」の図式が、頭に浮かび。。。飲まれへんし(><)
おまけに、ゲリっぴのため、脱水なんか、喉がカラカラ。粘膜ひっつくし。
夜になったら、熱出てきたし。

あー。もう、やってられへん!


何か、「良くなりたい。」って気持ちが。
良くなってくれない現実と合わなくて、結局あたしはもがいてるだけのような気がする・・・。
それで、過去ばかりみつめて、「現実逃避」してるように見えるのだろうなー、と、自己分析。

介護についても、家族と一緒に暮らし、家族の肩にのしかかることには、限界があると、前から感じてることで。
家族も、いくら愛があっても、限界超えると、精神潰れて、愛です。なんて、言ってらんないぜー。って感じだと思う。
でも、現実の社会では、あたしのようなケースが、「当たり前」として、ゴロゴロ存在するらしい。
もっと親が60や70歳のケースもあるみたいだし。
高齢者の介護としては、70歳のだんなさんが、同い年の奥さんの介護を担ってる、とか。

でも・・・こういう現状って、家族の介護力がなくなれば、「生きなくて結構です。」って言われてる気がしてくる。気だけなら、いいのだけど。
かといって、自立といっても、一人暮らしするには、それなりの、身体的な条件や、経済的、介護的、様々な難問が出てくるだろう。

「在宅」が推進されて、「家の方がいいでしょ?」「いいよね?」と、施設や病院を非難されることが多いのだケド。
介護される側や、介護する側の本音の本音って、案外表立って出てないのかもしれないね。
日本人的な、「家族愛の美」というものだろか?

それで、「もし介護の限界がきたら、生きてく選択はできなくなるかも。」って常に思ってる(いや、マイナスな考えではなくね。)というようなことを、ある介護のプロの方にボソッとつぶやくと。
「そーねー。」と肯定されてしまって、ビックリこいてしまった。
おいおい。まじかよー・・・。


自分の病気や障害が辛いという思いより。
いくらだって、寝返り打てなくて、夜中痛いの我慢できても。
痺れも、痙攣も、ガマンできても。

生きてくにはずせない、介護が必要な身としては、ほんと、他人に命寄りかかってる不安というか、漠然とあるな。あたしの場合は。


だけど、そーいうのに、悩んでること、意外と知ろうとしてくれる人いない。
病気や障害を受け入られないのと、また別問題だと、思うのですが。


以前のあたしだったら、全く気づかなかったことだな。
というか、同じ車イス生活者なのに、気づいてなかった。
トイレや洗面、食事が、自力でできてた壁って、意外と厚かった。
できない壁も、厚い。

なんて言って。
バリア自ら作りたくないのですが・・・。


はぁー。最近、無性に、「ふつうの女の子」になりたくて仕方ない。
今まで、こんなこと思ったことなかったのになー。思いつめてしまう、くらい。憧れてしまう・・・☆

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