■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

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2004年10月05日(火) 『ビルマの竪琴』抄

10月1日ブラジルに住む祖父が亡くなりました

彼は生前、何十冊もの小冊子を発行しています
ペンネームも持っているのよ
今、祖父を偲んで読み返しています

私にたくさんの気づきを与えてくれる読み物が
こんなに近くにあったのでした


::::::『ビルマの竪琴』抄:::::::
― マナウス 西木戸 平坊 ―


昭和23年11月23日、農地開放令が公布されて、私が帰還した昭和24年9月には、元の耕地は耕作者の手に落ちて、耕作すべき残された耕地(保存地)は微々たるものだった。私は再起は南米しかないと思って、悶々の9ヵ年を郷里で暮らし、昭和33年(1958年)アマゾンに渡り、それこそ血のにじむ日々を重ねた。かいあって25年ぶり、1983年に母郷を訪ねることが出来たのである。

その時の事、私の渡伯の時、既に結婚していた娘が一人いて、婚家に残しての旅立ちであったので、郷里にての逗留はこの娘の家だった。

何日かしてから、その娘が私に一枚の賞状を見せてくれました。見ると娘の次女(私の孫)の物で、作文コンクールの最優秀賞として、○○高校校長からのものだった。そしてその作文の原稿を私に読んでくれというのである。

原稿は鉛筆書きであって、何と祖父の私が恥ずかしい、原稿書きのきれいな字であった。それを読む進むうち、私の胸が熱くなり、込み上げてくるものを、どうする事も出来なかった。


― ビルマの竪琴  高校3年 マチャ ―

「この物語はビルマを部隊にしてあり、合唱好きな日本の一部隊のことが書かれています。この部隊の兵士にとって歌は一番の生きる支えでした。苦しいときも、悲しいときも、歌うことによって元気がでるのです。

私も中学の時、合唱をやっていましたが、歌は本当にすばらしい物です。たとえ見知らぬものどうし、違う国のものどうしであっても「歌」によって心の輪ができるのです。この物語でも、敵である筈のイギリス兵が「埴生の宿」によって戦闘をやめ、日本兵と共に肩を組んで合唱する様が語られています。私は歌の力に本当に驚かされました。

また、この隊の中心的な存在である水島上等兵を見逃すわけにはいきません。彼は竪琴をひき、いつも先頭にたって歌を歌うのです。彼は途中隊を離れて、ビルマの僧になります。といっても決して逃げたのではありません。それどころか屍になってビルマの放置されている日本兵を葬るために、帰国を断念して働いているのです。その遺体の中には、疲れ果て、病にかかり、食料もなく、体も衰える一方という状態にあり、自爆したものも多いということです。私はさぞや心残りだろうと思います。

私の祖母もこの様に心残りのまま、戦争の犠牲になった一人です。

この夏、ある新聞で、この祖母の死にざまを知ることが出来ました。満州で、胸の病に侵された状態で、男たちにおぶされながら、逃げ回っていたそうです。しかしいつまでも男たちに迷惑をかけるわけにはいきません。祖母は遂に覚悟を決め、自分を置いて行ってほしいと頼んだそうです。それも泳ぎが好きだったから、近くの川に投げ込んで欲しいと言ったそうです。そして男たちに両手、両足を持ってもらい、祖母は川の中に消えていったと言うのです。

ですから遺骨等は、もちろん帰ってきません。その祖母のように異国の地に、知る人もなく捨てられた人はどれだけいるのでしょうか。私は気の遠くなるような骨の数だと思うのです。この骨を水島上等兵は熱心に集めて葬ってやるのです。人に知られることなく、自分の行きたい道をこつこつと着実に築いていく。彼はそのような素晴らしい人物だと思いました。

普通ならば自分のやったことを、他人に認めて欲しいと思うのが本音でしょう。しかし彼の態度は人間のあるべき真の姿だと思います。

私はこのような生き方に感動を覚えると同時に、もう二度とこの悲惨な出来事を、繰り返してはいけないと、強く心に思いました。」


この文は1981年の作、文中の祖母は私の妻で、妻は三十三歳だった。私は応召して、ソ連の捕虜となり、この悲惨事を知るよしもなかった。復員して親戚からほぼ聞いていたが、新聞に載ったのは30余年後である。戦争の爪あとはこのような孫にまで、影を落として、いじらしい声で世に訴えている。その手引きとなった竹山道雄さんに感謝し、平和を渇迎する一庶民として、孫の作文に意を託した事をお許し願いたい。

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ここに書かれているように
祖父がブラジルに渡ったのは私が生まれる一年前
そしてその祖父が日本に来日したのが25年後で
そのとき私は長女の出産後

孫と曾孫に一度に初対面したのでした

戦争はもうたくさんですよね(;-;)
ここに載った祖母は母方のおばーちゃんですが




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