::::::: 『生きるヒント2』 :::::::: ― 今の自分を信じるための12章 ― 五木寛之 著
【第三章 感じる】
「肩が異常にこるというのは、なにか体が訴えているんじゃないかと思うんだよ。つまり、無理をしすぎているとか、睡眠が足りないとか、心労が多すぎるとか、その他いろんなことを体が本人に伝えようとしている。体は常に信号を発して自己とコミュニケーションしようとしているんじゃないか。いろんな予兆というのは、体が発する信号なんだ。それを感じる能力がないってことは、本当は困ったことなんじゃないかの思うね。彼は体の発する言葉を聴く耳を持たないらしい。一種の不感症なんだよ。ぼくは医師として、そういうタイプが必ずしも幸せとは思わない。こんな時代に生きていて、肩こりを感じるほうが自然なんじゃないか。きみは少し気をつけたほうがいいと思うね」
そのときの皆の喜びようといったらありませんでした。ドクターはきっとぼくをからかおうとして、そんなことを言ったにちがいありません。その証拠に、彼自身も愉快そうに大笑いしていたのですから。
しかし、ぼくはその日、なにかとても重要なことを教えられたような気がしたのです。ドクターの言葉にはジョウクではない、ある真実があると感じたからでした。
<体が自分に話しかけたがったいる>
というのは、おそらくとても曖昧な言い方です。しかし、なんとなく正しい考え方のような感じがする。
<体が発する信号>
<体がコミュニケートしたがっている>
<体の言葉を聴く耳をもたない>
それぞれに漠然とした表現ですが、たしかにそうだ、とぼくを感動させるものがそこにありました。
体はいったい誰にむけて話しかけようとしているのか。それは<自分>です。では、<自分>とはなんだろう。体とは別に<自分>というものが存在すると考えていいのだろうか。
体を離れて自分というものがありえないことは確かだが、それでは体イコール自己と言い切ってしまえるものかどうか。
<自分>とは何かを考えるためには、<自分でないもの>のことを想定してみなくてはなりません。
この<自己>と<非自己>を考える上で、これまで最もくっきりした答えを出してくれていたのは、医学上の<免疫>という考えかたでした。体内における<自己>と<非自己>を排除する体のしくみ、と、ぼくたちは簡単に理解していたからです。
しかし現在では、<免疫>に関して、それほど楽天的に割り切って考えることはできなくなってきているらしい。<免疫>に限らず、生という営みは常に諸刃の剣なのです。
<罪業深重のわれら>というふうに人間を認識したのは、今から八百年も昔に生きた親鸞という宗教家ですが、人間を光と同時に闇とも向きあっている存在であることに、化学もようやく気づきはじめているのかもしれません。
― 中略 ―
感じる、ということは、とても大事なことの様な気がします。肩こりでさえもそうなんじゃないでしょうか。肩がパンパンにはっていても、それをぜんぜん感じない人は、体の声を聴く耳をもたない人かもしれません。かつてのぼくがそうであったように。
さて、そんなわけで、最近はすこし自分が進歩したように思っていたのですが、困ったことが出てきました。感じる能力が回復したせいか、最近やたらと肩がこるのです。感じ過ぎるのも楽じゃありませんね。やれやれ。
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