■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

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2004年01月31日(土) 腰 痛 体 験 記 (3)

患者でもあり治療者でもある番長

幼いころからのカラダとココロの不調を
赤裸々に書いてくださいました




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私も読んでグッときてしまいました(;-;)


:::::安心が与える治癒力 ::::::


とにかく幼い頃から、とても不安の強い子供だったように思う。小学校高学年の頃は、よく深夜に両足の激痛で何度も目が覚めた記憶がある。

そういう事もあり、中学の部活を選ぶ時に母親に「運動部に入部なんてしたらまた足が痛くなる」そう言われて入部したいのを辞めさせられました。悲しい思い出です。

自分では大人になる事への不安、責任を負わねばならない不安、出来れば逃げ出したい欲望。
いつも、リーダー役などを任されるハメになるのだが、そう言う強い自分を装う事で、本来の弱い部分を隠していたのだと思う。

不定愁訴は20歳頃から、段々とキツクなる一方でこれが更なる不安を呼び、悪循環を作りあげて行ったように思える。

20歳の時友人が運転していた車が、スピードの出しすぎでカーブを曲がりきれずに、中央分離帯を乗り越え、車が反転して天井から地面に叩きつけられ、病院に1週間入院するハメになった。その日は40度近くの熱が出ただけで痛みは無かった。

しかし周りから「ムチウチは後から出るから怖い怖い」と呪いをかけられた。

事故から3月くらいしてからか?左の首のうなじ辺りになんとも言えない嫌な感覚が起こり始めた。
父や知り合いに連れられ、病院や色々な民間療法に行きました。医者や治療者に色々な事を言われて、随分通ったように思う。

頻繁に起こる寝違い。それも自分で自分の頭が支えられない感覚。痛みでまともに眠れないなんて何度経験したかわかりません。

その頃、目が開けていられない程の眼精疲労で多くの医院や病院も受診しました。
結局診断は遠視と言う事でした。テレビを見たりなんてとても出来ませんでしたが、3月程度で楽になったと思います。

そして、確か22歳の時、両目が突然飛蚊症になりました。
今もこの状態は治る事なく続いていますが、過去何度も検査しても異常はありません。

左首の不快感は、相変わらずの状態が続きました。

24歳の時、後輩を乗せ新御堂筋を運転中に、突然激しい動悸と眩暈両手の痺れに襲われ、このまま死ぬのではないかと言うような状態になりました。

いわゆるパニック発作です。当時はまだ心療内科などなく、近くの内科で自律神経失調症と診断されました。

その時「これは必ず再発します」と言われた嫌な思い出があります。
しかし、幸か不幸か鍼灸整骨院への就職が国家試験後に内定していたので、長期間休養することが出来ませんでした。結果的に、これでひきこもりにならなくて済んだのかもしれません。

しかし、電車は各駅停車を好んで利用車の運転はいつも手に脂汗と動悸の状態でパニックの恐怖と隣あわせでした。僕が勤務した鍼灸整骨院は、当時まだ景気が良かった大阪のオフィス街にありました。

そこで僕が見たものは、鍼灸主体の治療所だったのか、何度も腰や首を手術した人、不定愁訴を抱え日常生活が満足に過ごせない人。

いわゆる西洋医学でサジを投げられたと言う患者さんと、接する事になります。
これもまた、自分がこのような状態になったらどうしようと言うように、どんどん不安を大きくする原因になったと思います。

当時はインターネットなど当然無く、情報はごく限られたもので自分の置かれた環境や収入では、勉強すると言っても限界があり、勉強すればする程自信よりも不安が大きくなっていきました。


そんな中で当時付き合っていた女性と結婚することになりました。子供もすぐに出来ました。
そろそろまわりから開業したら、と言うことをしきりに言われ始めましたが、僕はもう自分自身が一杯いっぱいでした。しかし、父が定年してから退職金の殆どを僕の大学資金と鍼灸、柔道整復の学校資金に使わせたのでギブアップは出来ませんでした。
また家内も開業を強く希望しました。

そこで、子供が小学校に入学または低学年の間に、家内の実家の家業を継ぐと言う条件で開業に踏み切りました。なるべく借金を抑え立地が悪くても、家賃の安さを優先させたのですが、それでも実家を担保に僕にとっては大金。

開業後はいつも焦る気持ちばかりが優先していました。同時期に開業した仲間がいて絶対に負けたく無い気持ちで一杯でした。開業して3ケ月が経過した頃でしょうか。夜に、しばらく身を潜めていたパニックが顔を出すようになりました。

その内に全く眠れず、食事も喉を通らない、凄い倦怠感が襲うようになり始めました。当時来てもらっていた受付さんが鬱の経験があり、強く精神神経科を受診するように勧めてくれようやく受診しました。病名は聞きませんでしたが鬱だったと思います。

とにかく、自分が倒れたら、働けなくなったら、親の家が取られてしまう。働いていた時そのような人を数多くみてきた嫌な記憶がいつも頭の中にありました。
鬱の症状は波がありましたが薬を飲みながら、ましだまし仕事を続けている状態でした。時には、起きていられないような倦怠感に襲われて仕事を休んだ時もありました。

開業3年経過して次男が生まれました
2ケ月早産で、10点満点の4〜5点いわゆる仮死状態、障害が残る可能性が大きいと言われました。
毎日のように病院からかかる電話で病院へ出向き、色んな障害の可能性とリスクを伴う治療の同意書へのサインを求められました。

本当にこの時期は不定愁訴と絶望感から何度死を考えたか分かりません。

死を選べなかったのは、まだあどけない長男、必死で生きようとしている次男、残された者にかかる迷惑を考えると思い切れませんでした。

今から6年前だと思います。突然両手の力が抜ける感じがしました。ちょうどその頃、身内のちょっとした(大きな?)トラブルがありました。詳しくは割愛しますが、これほど、人間の醜さ汚さ裏切りを間近に感じた事はありませんし、一生忘れられませし、忘れてはいけないと思っています。

この時からちらほらTMSが出現していたように思います。
5年前の秋3ケ月程寝違いが持続的に頻発するようになりました。それに伴い足の脱力感や痺れが出始めました。我慢できる程度の腰痛、同じ姿勢で立っていると1分ももたない。

近くの整形で検査しましたが異常無し、MRIで首のヘルニアが見つかりました。
通院中の神経科では、詳しい説明が無いまま薬のみが処方され続けていました。

症状はキツクなるばかりで、○○大学付属病院の神経内科を受診しました。

脳のCT.筋電図等の検査で僕が危惧していた難病は除外されましたが「ストレスですね」と言う答えの他は、何も示されませんでした。一時期は症状はほぼ完治していました

ただ、またもや身内に罵声を浴びせられたのを境に症状が現れました。それからは、鍼灸、カイロ、アメリカから最新のサプリメントを個人輸入したり、噛み合わせをあわせる為親知らずを3本抜いたりしました。一体いくらのお金や時間を注ぎ込んだか・・・


でもそれだけしても、症状は変化ありませんでした。それどころか両手の指先が思うように動かなくなってきました。それまで通院していた神経科を辞めて、思い切って近所の心療内科に受診しました。
やっと納得行く説明と、安心する言葉を掛けて貰う事ができました。
答えは脳の過緊張で、心配しなくても必ず治ると言うものでした。

それでも症状は一進一退でした。最後は本当に霊が原因では無いかと思ったりもしました。
そうして、はっきり記憶にはありませんでしたが、おおざる先生のHPの呪いと言うところに目が留まりました。
中を読んですぐに、呪いの意味を理解して赤本をとりよせました。
一筋の明かりが、暗い心の中に差し込んで来た感じがしました。

掲示板に書き込み、アドバイスを貰い実践しました。
それまで腰が何度鍼をしても板のような感じがしていたのが、3日車を運転しながら、叫んだだけで嘘のように収まりました。

大阪のメソッドに参加して、色んな仲間と知り合え随分安心できました。苦しんでいるのは自分だけじゃ無いんだと!今も症状はたまに顔だします。
でも、以前のような不安はありませんし、それはそれで、受け止められるようになりました。

そしてなんとなく、気楽に構えられるようになりました。なにより長年に渡って僕の前に立ち塞がっていた大きな扉が、ようやく開き始めた気がします。



― 追記 ―

ストレスは常に自覚していたから「ストレスですね」と言われすぐに納得出来た。
ただどのように対処したら良いかわからなかったし教えて貰えなかった。

今まで数多くの医者や治療家に出会ったが、一人のドクターを除いては、不安を煽られはしたが、患者を安心させる言葉をかけたのは、皆無だった。
自分も治療する上で、また自分の身分を守る為、患者教育と言う名のもとに、どれだけ多くの呪いや不安を与えた事か。

今は安心を与えるのが治癒にどれだけ大きな力を貸すのかが良くわかる。

ただ病気をあらゆる面から、推理、洞察する力、安心させる為の、医学的、生理学的、科学的裏づけの勉強が必要になって来たと感じています。


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