ヒカリよりも迅く
リュカ



 胡瓜の味の沁みるは(闇リリカル)



冷たいキッチンの床にぺたりと座り込み
あたしは胡瓜を齧り続ける
部屋から漏れる薄明かり
イチゴチョコとセブンスターの混じった匂い
深夜バラエティーの安っぽい笑い声
そのすべてに頑なに背を向けて
ぼんやり胡瓜を齧り続ける
緑が口いっぱいに広がり
黒が心の底まで染み渡り
白が脳を隅々まで冒す
あたしは無彩色の瞳に赤い扉を映し
ひたすら胡瓜を齧り続ける
握り締めた左手に食い込む薬指の爪
ベッドの上に散らばる大量のお菓子
来週の金曜日が提出期限のレポート
もはやそんなものどうでもよくなって
無心で胡瓜を齧り続ける
2週間前に買った鎮痛薬の白い箱
キャップをなくした小さな剃刀
大好きなうさぎの絵柄の体重計
脆いガラスの壁に入った罅を確かめながら
最後に小さく残った胡瓜をひと齧り


今日食べたものが脳裏にフラッシュバック
朝起きてからさっきまでの十何時間のうちに
口に入れたものが一瞬でまぶたの裏を走る
チョコレートが喉を焦がし
海鮮ドリアが舌を焼き
鶏になみなみ注いだポン酢が胃を燃やした
心まで灼き尽くしてしまえたらよかったのだ
何が悲しくてあんなに必死になっていたのだろう
何が 悲しくて


あたしは 何を 欲していたのだろう



レバーを乱暴に下ろして全部洗い流す
涙でうっすら滲む視界
遠く近くに届く微かな耳鳴り
しばらく止まる気配のない咳き込み
なにもかも消えてしまえと小さく世界を呪う
午前2時の日常未満なできごとに
あたしはまたひとつため息をつく





ひさしぶりに聞いた受話器越しの母の声
もっとずっと話していたいと思ったことなど
帰ってあなたに会いたいと思ったことなど
これまで一度でもあっただろうか
丸く尖った声に懐かしさと安堵を覚え
毎回繰り返す同じ小言をうれしく感じ
そしてあたしはいつになく素直に受け答えができた
いつから忘れていたのだろう
力を抜いて話をするというあたりまえの振る舞いを
いつから隠していたのだろう
煙草も剃刀も化粧水も錠剤も携帯電話も過食嘔吐も
あなたにだけは決して言うまいと
絶対に 言えまいと

そして気がついたのはごくごくささやかな事実
あたしはあなたをずっと避けていて
どこかでおかしな意地を張っていて
まっすぐにやさしくなれずにいたのだけれど
それが間違っているのだということ
ほんとうはあなたをずっと好きでいたのだということ
それに気づいたのがどうして今なのか
それだけが わからないでいる





足りないものは物でもお金でもなく
抱きしめてくれる人のあたたかい腕
メールの返事も電話もいらないから
あたしを安心させてくれるきみの温度をください
あのとき僅かに繋がれた指と指をもっと絡めてしまえばよかった
あのとき一瞬だけ触れた手を握り締めてしまえばよかった
あのときほんの軽く肩を引き寄せられたのに任せて
その胸に身を預けてしまえばよかった

想えば想うほど切なさは増すばかり
あたしはまた少し弱くなったことを認めざるを得ない
明かりを落とした浴室に詩集を持ち込んで読み耽り
千年の昔も変わらぬ恋歌に思いを馳せ
携帯の受信履歴を何度も見ては交互に笑顔とため息
幸せなことだよとあの人は言う
かわいらしいですよとあの子は笑う
たしかに今のあたしは幸せかもしれない
でも嘘をついてまで隠したくないのは

きみに会えないことが
たまらなくさみしいのだという気持ち


きみへの気持ちにもっと素直になれればいい
誰よりもきみを好きでいるのだと
何よりも愛しくて仕方ないのだと
そしてもっとずっと
やさしく柔らかく愛したいのだと
その想いを ふわりと浮かべるように伝えられたらいい




2004年11月26日(金)
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