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     2006年08月25日(金)
長文:三色旗関連/ 信じる 自分という存在 喜捨 

 
ネットのドッペルゲンガー SIGHNの日記から転載

===ここから====

先ほど徘徊した mixi日記の中で ちょっと気になる事が書いてあったので、つたないですが、考察を…。

人は、何かを信じなくては生きていけない仕組みになっています。
何も信じないということは、道を歩いているとき、
すれ違う人がみんな悪人ではないかと疑ってみたり、
いきなり地震が来るのではないかと座り込んでみたり、
電車はおろか、エレベーターにも乗れなければ、出歩く事もできず、
極端な話、水道の水に毒が混入されてやしないかと水も飲めない状態…
何も信じないレベルが高くなると心療内科か精神科のお世話になるほどの状態になってしまうことでしょう。

つまり、常識的な日常で、人は必ず何かを信じて生きています。
「多分大丈夫」そういうお気楽が日常です。
今日大丈夫だったから 多分明日も。あさっても。ずっとこの先も。。。

そしてその判断をするのは 最終的に「自分」なので、
大抵の場合、人は根本的に「自分」を信じて生きています。

しかし、私は根本的に非常に疑い深い人間なので、
いつもどんな時も、最低最悪の想像をしながら、
常に独りぼっちになっても構わないという覚悟で生きています。
いわゆる「強いヒト」と言われる由縁です。

ところが、疑い深いがゆえに、
その独りぼっちになったときの「自分」ほど信じられないものはありません(笑)
自分を信じることを 自信というのですからうなづけます。

他の人はどうなんでしょう?

自分を一番信じられると 言い切るのでしょうか?

病気になっても? 

「オマエハ何者?」と問われたときに、用意できる答えをアイデンティティ と言います。

いつでもどこでも、どんな状況になっても、
自分のアイデンティティを語れる行為が信仰であると 私は思います。
要は 「自信」となりますね。

また、人生を航海にたとえて、信仰は羅針盤とも言われます。

ある日突然、お金もない、頼る人もない、健康も害している、
そういうどん底から 希望を見い出す力が信仰にはあります。

信仰のない人は、どん底から這い上がるとき、やはり自分を頼みとするのですかね。
自分の力でどうにもならない局面では 何を頼みとするのでしょうか。
多分 そんな日は来ないと 信じているのかも知れません。
ある意味 幸せですね。
そう考えると 信仰は 絶対保証の保険のようですが…。

といったところで お金の話。

「宗教になんでお金が必要か?」とはよく聞く疑問です。

では、逆に聞きたいのですが。
平成の日本で、全くお金を動かさず、何千人何百人の人間が 週に何度も集会をするには どうすればよいと思いますか?

「地域に専用の会館が欲しい!」
これは 組織が大きくなればなるほど、地元の会員が切望して、何年もかかって実現してきた汗と涙の結晶です。
想像力が働けば簡単なことですが、
構想から、土地選び、周辺地域の理解、着工、建設、完成、その後の維持…当然お金が必要です。
小さなマイホームを建てるような安易さで(それでも大変な事でしょうが)、建った建物など1つたりとももないでしょう。
アフリカ等の海外では、貨幣価値も違う事から、日本からの支援なくしては 会館維持も難しいと聞いています。

その元になるお金の話ですが、信者が「喜捨」したのなら、
外野がアレコレいう事はない、と私は思っています。
億万長者が、億寄付する。自分のお金なら何も問題はありません。

仏法では、寄付を「喜捨」という言い方をしますが、喜捨できないのなら、イヤイヤ寄付して欲しくないなぁとも思っています。これは 末端組織ではスグ辞める人もいて言えない事でしょうが( ̄ー ̄)

まぁ 私など、いくら寄付をケチったところで、金額が知れいているので、つまらない贅沢をしてお腹の中に消えてしまうか、少々小奇麗な服を身に着けるか、しょーもないことです。
社会や人の役に立つ事には使いそうもありません。
かえって もっともっと…という餓鬼界の命が増幅されるだけの事でしょう。

しかし、法に喜捨した金額は 未来にわたって宝城を荘厳する一部になり、歴史に残りますよね。
歴史を作る波の中で、その他大勢の人は その最中にいる時は 
自分が歴史上の人だとは気づきません。
歴史を残そう と意識した人だけが解っている話ですね。

さて、後半戦 日々全力で行きましょう♪

=====ココマデ====