2004年12月23日(木) 愛し合う 男と女の 深い溝
今日は、仕事帰りにモスでもう一仕事。ひとつ終わらせた。
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レモンティーが好きだ。無農薬のゴツゴツしたレモンを1.5センチくらいの分厚い輪切りにして、蜂蜜大さじ1杯とともに大きなマグに入れて、なみなみと紅茶を注ぐ。途中スプーンでレモンをつぶしながらゴクゴク飲む。この分厚いレモン1枚で、紅茶と蜂蜜を注ぎ足し注ぎ足し、大容量を2杯は飲める。シアワセの味。シークワーサーがあるときは、包丁で切れ目を入れて、レモンの代わりに1粒ドブンと入れる。これも美味。
んー、でも、2杯飲むと胃が痛くなる。私は紅茶よりコーヒーの方が体質に合うみたいで、コーヒーは痛くならない。
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最近読んだ本で心に残った一節がある。
『人は、その人の能力の限界までしか人を愛せない。その人の限界までの包容力しかもたない。「能力」を「想像力」に変えてもいい。人は、その人の想像できる範囲内しか、他人を守れない。ということを思った。
たとえば私が誰かを許すと言っても、そのことがその人の想像力をこえていたなら、その人は、それを信じないだろう。好きだと言っても信じない、自由にしていいよと言ってもおそれる。
そういうことは、二人の間の想像力や受け入れる能力の差がある時に、よくおこる。』
最初ピンとこなくて、素通りしたけど、なんとなく気になってこの部分を読み返していた。今はかなり納得して、今までうまく説明できなかった「人といるときの寂しさ」の理由がわかった気がする。
今まで付き合った人で、一緒にいると寂しいなと思った人が何人かいる。私は相手を大好きで、相手も私を大好きで、ずっと一緒にいるのに、なんか寂しい。むしろ、一緒にいればいるだけ寂しさがつのる。
だけど、相手にも自分にも落ち度はまったくないのだ。実は相手が浮気してるだとか、私が利用されてるだけとか、そんな寂しさだったら解決するかもしれないけど、誰にもまったく落ち度がないのだから、解決しようがない。
じきにその寂しさに耐えられなくなって、「好きなのに別れる」という理解不能な結果に終わってしまう。
「愛する」ということに想像力がかかわっていたとは。人は想像できる範囲の愛し方しかできないのだ。想像できる「愛」の範囲に差があれば、範囲が大きい方が寂しい思いをし、小さい方は相手の愛の大きさに気づかない。「寂しい」と言われても困るのだ。だって想像できないんだから。
そう考えると、恋人や配偶者を選ぶとき、相手を好きなだけじゃダメだ。想像力の範囲が同じでなければ、どちらかが寂しい思いをすることになる。どちらかが常に満たされない状態になってしまう。
これは親子でも同じことで、私は小さい頃から母親に満たされないものを感じていて、よく「私は愛されていない」と文句を言っていたが、母親は誰が見てもいい母親だったし、母親自身も精一杯私を愛していたと思う。だけど、私には母の愛がいつも何か重要な部分が欠落しているように思われたのだ。父親とは想像力の範囲が似ていたみたいで、私はずっと母より父といる方が癒された。
そういう視点で相方のことを思ってみる。相方とは寂しさを感じない。たまに寂しくなることもあるが、その度に「なんか寂しい。なんかわかんないけど、寂しいんだよー」と相方に言うと、その寂しさを理解してくれる。何も言わなくても理解してくれているのが表情でわかる。決して「?」となっていない。そうやって、私は一時的に感じた満たされない部分を逐一充填することがきている。
この充填がうまくいかない相手とは、つもり積もって抱えきれないほどの「寂しさ」でダメになってしまうだろう。これが俗に言う「すれ違い」ってやつなのかもしれない。「夫婦は日々の会話が大事」って言うけど、いや、大事なのは「会話」なんぞではなく、「充填」なのである。「会話」なんてしたって何の足しにもなっていないかもしれない。それが無言でも、たったの2分でもいいから、「充填」できれば絶対ダメにならないのではないか。
そして頭に浮かぶのは、私の愛の想像力は、相方のよりも小さくはないだろうか、という疑問である。相方を寂しくさせてはいないだろうか。私は相方の心の空きを埋めることができているだろうか。さらには、私よりも大きな愛の想像力に恵まれた子どもを産んで、寂しい思いをさせやしないだろうか。
想像力というのは努力でなんとかなるのか?
つづく。
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>>「匿名メールフォーム」へのレス
・すみません、昨日お返事書くの忘れてました。
姉妹がいるといいですねー。
雑誌とか本とか手分けして買えますもんね。
43巻いつでるんでしょうかねー。
3ヵ月後とかならいいなー。
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