2004年12月12日(日) ウニ三昧 ダイヤを失くして 思うこと
明太子うめー。ご飯うめー。ここで一句。
胃袋が 破れるまで 食べ続ければ いいじゃないか 人間だもの
たまり
仕事から帰ったら、母がいた。冷蔵庫には明太子。塾から帰ったらもう11時も近いので、いつも夕飯は食べないようにしているんだが、今日は明太子でガッツリ一膳いただきやした。うめーよー。うめーよー。と言いながら。
そのほか、祖母が私のためにウニを山ほど買って母に持たせてくれたので、もうっ、ビバ・ご飯! ヴィヴァ・めし! 相方よ、私だけすまないねぇ〜。ヲマイサンも日本へおいで。
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浮かれまくりのたまりだが、なんと今日、常につけていたダイヤのピアスを片方失くしてしまったのだ。1年前に自分で買ったプラチナダイヤのプチピアス。今日の昼、ふと耳を触ったら右耳のがなくなってた。いつの間にやら。
あちこち探したら、キャッチの部分だけ昨日仕事から帰って服を着替えたところに落ちていたので、どうやらセーターを脱ぐときにひっかけたみたいだ。それからたぶんダイヤのついた本体部分は耳にしばらくくっ付いていて、家のどこかで落としたものと想像される。仕事に行く時間になったので、探すのはあきらめた。帰ってからもちょっと探したけど、今もまだ見つかっていない。まぁ、あんなチッポケなもの、そうそう見つからないわな。
そう、「あんなチッポケなもの」に翻弄されている私。仕事中も、昨日着替えてから何してたっけ? などと気づいたら考えておるわけだ。帰ってからも腰を曲げて家中探し回る。仕事もせずに。
うーむ。所有とはなんぞや。人は所有によってシアワセになれたのか?
などと自分に問うてみる。私は、日本とオーストラリアを行ったり来たりの根無し草的生活をしているせいか、最近所有を重く感じる。必要なものは買うべきだけど、ダイヤのピアスは重荷なだけじゃないのか? あれば心配が増えるだけなような。
「モノに執着するとシアワセになれない」これが私の座右の銘。モノへの執着は更なる欲を生むわけですよ。モノを買うときは、家が全焼したときに悲しくならないか、を考えてみる。悲しくなるモノなら重荷になるだけなので、買わない。
誕生日とかクリスマスとか卒業式とかに、何がほしい? って相方が聞いてくる。うーんと何がほしいか考えてみる。でも何もほしいものが浮かばない。というのも、相方にもらったものは、家が全焼したときに悲しくないわけがないので、重荷になること間違いなしだからだ。
逆に、家が全焼しても残るものはなんだろう、と考えてみる。健康、頭脳、経験、想い出(「家族」とかはこの際抜きで)。つまり、お金をかけるべきなのは、自分を肥やすもの、たとえばおいしい食事だとか、心地よい空間だとか、教育だとか、旅行なのだなぁと思う。
とは言っても、悟りを開いているわけではないので、一時の迷いでダイヤのピアスなんぞ買ってしまうこともある。誕生日にアクセサリーを買ってもらったりもする。そして失って初めて執着していたことに気づく。そのたびに、イカンイカンと反省する。
モノへの執着をなくしていくためにも、たまには何かを失うのも薬になるのかもしれない。といいつつ、明日も床に這いつくばって探すのだな、きっと。執着しまくり。
つづく。
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