たそがれまで
DiaryINDEXpastwill


2003年11月15日(土) ガラスの靴 1




入院中の夫に小さなケーキの差し入れをした。

  はいこれ、お祝いのケーキ

一瞬考えたようだけれど、すぐに返事が返ってきた。

  24年目だねぇ


女という生き物はとかく記念日好きと言われるが、
私も例に漏れず、記念日というやつに心が躍る。
24年目の今日、夫と初めて出逢った。

姉がバイト先の人達と遊びに行くのに、急に友人がキャンセルしたものだから
誰でも良いから取り敢えずと、私に白羽の矢が立った。
それはただ「スケート」という人参をぶら下げれば
一も二もなくOKするのが私だけだったからでしかない。

高校生だった姉(当時は姉だということは知らなかった)と、
バイト仲間は大学生ばかり、その中に14才の誕生日を迎えたばかりの私が居た。
私はメンバーがどうだろうと、タダでスケートが出来るのが嬉しくて
構ってもらわなくとも充分だったのだ。

 一緒に滑ろうか?

そう声をかけてくれた夫、だけどスケートは上手じゃなかったなぁ。
競争したって私の方がう〜んと早かった(笑)


当時の私達には24年後の今日と云う日が想像できなかった。
運命の人に出会うと頭の中で鐘が鳴り響くなんて聞いたこともあるけれど
そんなこともぜんぜんなかった。
おそらく二度と逢うこともないだろうと、そんなふうに感じたんだ。

それから勉強を教えてもらったり、遊びに連れて行ってもらったり
私が高校に入学した後にはつき合ってるふうにはなったけど、
私の中ではずっとお兄ちゃんだった。

悩みを相談すれば、きちんと道筋をたて一つ一つ解決する方法を教えてくれたし
時にはその手筈を整えてくれたこともある。
だからというわけではないけど、もがいてもがいて道を見つける年頃を
私はもがかずに過ごしてしまった。
それが後で大きなしっぺ替えしとなって自分に降りかかってきたのかもしれない。
自分一人では何も解決できない弱い自分の下地が出来上がってしまっていた。

自分が養女だったと知った時も、一番に泣きついたのは夫だった。
割り切れない気持ちをぶつける私に、「両親が二組いて幸せだ」と宥めてくれたのも夫。
9才の年齢の差は絶対的な関係を生む。
夫がそれが正しいと言えば、私に反論の余地などない。
私はただ感情論だけで夫と向かい合うしかなかった。
実はそんな関係が今でも続いているんだけれど。


高校を卒業したら、夫と結婚するだろうと皆が思っていた。
私もそうなるのかなぁと思っていた。
だけど、バイトを初めて違う世界を見たとき思った。
このまま結婚してしまうのは嫌だと。
ハメを外そうとすると先にダメ出しをする夫、
堅実だけれど面白くなかった。

もっと自分の足で立って、いろんなことをやってみたい。
私にはもっといろんな可能性がある筈だ。
そう思った自分を否定はしない。
確かにいろいろな可能性はあったのだから。
でもそれをモノにできなかったのも事実、
それは紛れもなく自分自身のせい。


夫の転勤と同時に私達は別れた。
遠距離恋愛など考えられなかった。
寂しい時にはすぐ駆けつけてくれる人が必要だった。
困った時には隣で支えてくれる人が必要だった。

結局、自分の足で立つことなどできなかったし
本気でそうしようなどとは思ってなかった。
恋がダメになると結局夫に泣きついた。
一度ではなく何度も何度も。


誰かの歌ではないけれど、
夫は私の為にいくつもガラスの靴を作ってくれた。
だけど私はそのガラスの靴が窮屈になると、割ってでも裸足になりたがった。
どこかで脱いで忘れてきたこともしばしば。


いつまでもガラスの靴を作ってくれると思っていたのは
甘えでしかないのだけれど。
「もうお前にはガラスの靴を作れない」と言われてはっと気がついたけど
もう遅かった。
夫は別の女性の為にガラスの靴を作り始めた。


東風 |MAILHomePage

My追加