たそがれまで
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2003年09月12日(金) 誕生日 1




夕方、私の故郷で大きなお祭りが始まったというニュースをやっていた。
大きなお社の参道にズラっと露店が並ぶ映像も流れた。
毎年、9月12日から1週間の間、万物の生命を慈しみ殺生を戒める神事。
「放生会」

小さい頃、毎年父と手を繋いで出向いたお祭りでもある。

延々と続いている露店の灯り、烏賊を焼く匂い、カステラの甘い香り
子供にとってはそこは別世界だった。
めったに父と出かけたことがない私にとって、お祭りの魅力と
父と出かけるという喜びが幼心に同居していたと思う。

この日だけはわがままを存分に言っても怒られなかった。
綿菓子に風船、おままごとの道具、帰り道の私の両手は
いろいろな物で塞がれていた。

手を繋がないとすぐにでも迷子になってしまいそうな人出に、
父は私を肩車してくれたこともある。
それが嬉しくて、でも少し恥ずかしくて、
今でもはっきり覚えている。




父は寡黙な人だった。
大正という時代の最後の年に生まれた父は、家庭でも多くを語らなかった。
若い頃に患った肺の病気のおかげで、戦争に行くこともなく
無二の親友が学徒出陣で命を落とし、なぜ自分だけが生きているのかと
悔やんでいることも誰にも話さなかったという。
これは父の死後、叔父への手紙でわかったことだ。

仕事はできる人だったし、人望も厚かった。
それを葬儀の時に並んだ生花で初め知ったのだ。
誰もが父を誉めてくれた。
そして
娘である私のことを、誰かれとなく自慢していたことも・・


愛されてないのかもしれないと疑ったこともあった。
母へ私というおもちゃを与えて、自分は好き勝手していると怨んだこともあった。
血が繋がっていないから、養女だから。
いつもそんな言葉と闘っていた。

でも、父は私は愛してくれていた。
父は私を自慢の娘だと思ってくれていた。
父の葬儀の日、皆から聞く言葉に私は涙を流すしかなかった。




もしも、生きていてくれたら
今日が78才の誕生日だ。
居なくなって15年が経つけれど、
私の中ではいつまでも63才のままの父だ。

もしも現在ここにいて、孫と一緒に祝うことができたら
父はどんな顔をして、どんな言葉を発するのだろう。

今夜はケーキの代わりにエクレアを食べた。
子供たちにもちゃんと説明をした。
今日がお祖父ちゃんの誕生日で明日はお祖母ちゃんの誕生日だからと。

そう、子供の頃、二人の誕生日が一日違いということで
プレゼント代に四苦八苦したっけ。

仏壇に向かって「おめでとー」と声をかける子供たち。
逢わせてあげたかった。本当にそう思う。


来年は家族で放生会に行くよ。
本当はね、私も家族で行きたかったんだ。
もう子供の頃の話しだけれど・・・。









東風 |MAILHomePage

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