レプリカントな日々。

2002年08月16日(金) 戦後57年によせて。

 日付は変わってしまったけれど。
 思いつくままに・・・。

 私は1999年7月12日に日本国籍を取得した、元在日韓国人です。
 「私はこの国の花鳥風月を愛しています」
 この一文は帰化動機書に書いた、偽らざる正直な心境。
 祖父の代からこの国で暮らしている私にとって、この国は紛れもない母国だ。そして叉、30数年をこの国で「ガイジン」として暮らしてきた私にとって、この国はとても不思議な国に見える。

 「ヒロシマ・ナガサキ」を知らない若い世代にとって「国」とは何に見えているのだろうか。
 かまびすしいギロンが続く「歴史的事実」だが、私にしてみればとある歴史的事実があったか無かったなどに興味はない。
 結局の所、そのどちらかの「宗教」に与するしかないのだから。
 そもそも、あなたには「第二次世界大戦」があったかなかったか、論証出来るのか?
 してみせろというなら、私はいくらでも「第二次世界大戦など無かった」という論陣を張ってみせよう。
 我々は「あった」とする宗教に入信するか「無かった」とする宗教に入信するかを選択するだけだ。我々に許されるそれ以外の答えは「その問題に関わる気はない」というものだ。
 あなたがソフィスティケイテッドされたコスモポリタンであるなら、迷うことなくその第三の宗教を選べばいい。
 現代社会において「右派・左派」等といった「思想」が、力を持った価値観として生きていると信じられるのであれば、あなたはコスモポリタンではなく、野蛮な田舎者だが・・・。
 我々は「その究極的価値観でさえも趣味や嗜好といった個人的なレベルで取捨選択出来る時代」に生きているのだ。
 消えたのは「国家観」ではない。
 パブリックという概念そのものが消失したのだ。
 ケネディが言う「国が何をしてくれるのかではなく、国に何が出来るのかを考え」るといった「市民」としての機能を捨て去ることによって得られる「自由」もあるということだ。
 「環境」も「戦争」も「私が快・不快」だからという「個人的趣味嗜好」で語られているのだということに気がつくべきだろう。
 私はその価値観を否定する気はない。
 いやむしろ、水木しげる氏がいう通り「いい線いっている」国であり時代だとさえ感じている。

 現代においてただ一つだけ私が不愉快さを感じるのは、その個々人が持つリアルな人間としての皮膚観の希薄さかもしれない。
 戦中の政府・軍隊と戦後の政府とは「連続していない」ハズの「日本」でありながら、何故か不思議なことに「靖国」ではそれが連続している。
 国のために人がいるのか?それとも人のために国があるのか?
 梅原猛氏の「神々の流ざん」(ご本人も「仮説」だとはしてますが)を読めばわかる通り、神道は柔軟すぎるくらい柔軟であったはずなのだが、いつからここまで依怙地になったのだろう。
 日の丸を国旗とし、君が代を国歌とし、靖国をこの国の精神的支柱として位置づけたいのであればそれでいい。お好きにどうぞ。
 謝罪をしたくなければしなければいい。それは同感だ。
 問題は他者の痛みを知る心だろう。
 単なる偶然なのか、これも不思議なことに「新しい」人たちは歴史的事実に対する価値観だけでなく、今を生きるリアルな人間としても他者の心の痛みを知る皮膚観に乏しいと感じるエピソードに事欠かないのは何故なのか。
 最近とある若者のサイトを再発見し、彼がそうした「皮膚観」を欠落させていることを再認識させられた。

 私個人としては、10年1日、変わらぬ明日を希みたい。
 しかし。
 我々はいつか「国」か「人」か、選択を迫られる日が来るのかもしれない。

 ああ、それからもう一つ。
 もう語る気にさえなれないが・・・。
 「誇り」は後からついてくるものではなかったのか?

 私が「それ」を宗教だと断じるのはその皮膚観の希薄さからだ。
 他者の痛みに共感することの出来ない人間だけが、シンプルでわかりやすい「新しい」ことを語っていると感じるのは、私の幻想であってくれればいいと、心底願う。



 戦争について語るより、イイオンナについて語りたい。
 国について語るより、美味いモノについて語りたい。
 ウマイものを喰ってイイオンナの白い腹の上で死ねるなら、それで本望。







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