2003年08月27日(水) >> 映画、『The Ring』。
原作発表から、実に11年。
ハリウッドはドリームワークスによって仕掛けられたジャパニーズホラー(らしい)この作品。
ソシテ
未だ不評街道まっしぐらの、アレです。(笑。)
爆笑さ加減では同等だろうと勝手に踏んだ、『最“新”絶叫計画』と共に鑑賞いたしマシた。
が。
アメリカ映画ならでわのビックリドッキリ表現は存在するモノの、
コレマタなかなかどうして
日本の劇場版『リング』より、トテモ原作に近い雰囲気を醸し出しているでわありませんか。
単純にオドロキです。
カナリめぐ的に、
松嶋奈々子主演の映画版『リング』では
ある日突然襲われた“呪い”とゆう“恐怖”を、丹念に映像化したように感じられマシたが
ナオミ・ワッツ主演のハリウッド版『The Ring』では
“愛する者を失う恐怖”と親子愛ダケがクローズアップされていたように感じマシた。
まぁ
主人公が女なのは日本の映画版でも一緒なのデスが
サマラの過去を切り捨てるべく(?)養子として設定してみたり
予想通り、キレイに作られスギた特殊メイクが想像してた範囲だったりして
いくつか興醒めスル場面もございマシたが、
エイダンの家族環境とサマラの家族環境の対照的な痛みがあったり
日本版の
“息子を救いたい浅川が、実父に涼しい顔でビデオを見せる”とゆう
『心中』なんてコトバすら提唱的な日本人全開で
身内への甘え(?)にさえ感じるエゴイスティックな愛情表現のラストとは違って
あくまで
意地でもw自己責任の上で解決しようとしているレイチェルを見て育ったエイダンの
「これを見た人はどうなるの?」とゆう賢いぼっちゃんっぷりが印象的だったり
ラスト近辺の、サマラがTV画面から出てくる予兆を出す前のシーンで
ノアがデスク上の紙に直置きしてあったマグカップをひょいと持ち上げた時に
グラスなんかによく出来るリング状のシミが、その紙の上にぽかんと出来てたりして
映像イメージ的にも、ビミョ〜にめぐツボで。(笑。)
原作小説発表当初も、そんなめぐツボだった『リング』。
元々、アメリカ向きのツクリな印象を受けていたんデスよね。
何ってゆ〜のかなぁ。
こう、
父親が息子を護るべく奔走するトコロとか、愛情に走りたがるトコロとか
不安定さでヒステリックになりがちなトコロとか。
憎悪劇だトカ家庭崩壊なんかの愛情崩壊劇ならいざ知らズ
こんな親子愛トカだなんて
タブン
愛情表現の薄い日本人には、あまりナイ感覚なんだろうと感じられマシたデスよ。
特に、今の日本の現状じゃあね。
だからこそ
この作品の真髄(と、云うにはワタシも事足りませんが。;)を読み取れてナイようなユーザーが
「怖くないからリングじゃない」なんて
至極単純な評価シカ下せないのだろうとさえ感じてしまいます。
そもそも、『リング』は怖いダケの作品ではありません。
愛する者の対象がそれぞれ違えど
ただ、愛する者を失ってしまうだろう事が怖くて
愛する者を護る為に、必死で恐怖と闘おうとする姿勢を描いていたハズなのです。
故に、
貞子の子供のような存在である『呪いのテープ』は、大切にされなければならないのです。
無碍な扱いをされているカラこそ、貞子の呪いは増殖しているようにも捕らえられるのです。
本当は、ただただ『子供』を大切にしていて欲しいダケなのカモ知れないのに。
今後も
『カオス』、『回路』、『仄暗い水の底から』、『呪怨』と
日本映画のハリウッドリメイクが決定されておりマスが
個人的に
今回の『The Ring』に対する評価。とゆうか、面白味の感じ方ってゆうのは
原作の小説を読んで、
(めぐ的にも原作にイチバン忠実かと感じられる)高橋克典主演のTVスペシャル版とドラマ版を観て、
映画版の『リング』と『らせん』を(故意に『リング2』を避けつつ)観て置いた上で
いくつかの伏線を持って挑んだ作品だカラこその感想なんだろうと思えてなりませんので
これらの作品は、ながら待ちで行きたいと思いマスです。(笑。)
因みに
劇場公開版では
アンナ(サマラ養母)の「66年、流産」というところが
「66回、流産」と誤訳されていたとの事で
「ソコまで頑張った末に迎えた養子を、どうしてお母さんが殺しちゃうの?」なんて
謎の新たな疑問を持たれる方や
さながら
ローズマリーのように捕らていらした方もいらっしゃったとかいらっしゃらなかったとか。
ってか、
66回もデキるマデ。ってんは、サスガにガンバりスギでしょうってばさ。(ヲイ。)
ソレにしても。
あの、
細くてひょろ長ぁ〜いハシゴにせよ、“66年”とゆう年代にせよ
『レイチェル』、『ノア』、『サマラ』とゆうナマエにせよ
今後や深層に、どうにか関係してくるのでしょうかね?
◇◆◇ めぐ。 |