2002年06月23日(日) >> 慰霊の日。
でした。
めぐが慰霊の日を意識し始めたのは、小学校6年生くらいカラかなぁ。
ソレまではフツ〜に
「ナンだか公休日で学コがお休み〜♪」
だトカ
「後輩Kの誕生日ー。毎年お休みなのね〜。(殴。)」
ってな程度だったんだケド。
確かその年に、初めて沖縄戦の資料館に行ってたのね。
当時の生活風景を再現した模型や写真
説明書きがないと何なのかさえワカラナイ生活常備品や
もうすっかりサビついちゃってる不発弾なんかが
薄暗い明かりの下で、ホントに所狭しと展示されていたんだけれど
めぐが一番コタえたのが、水筒。
ご存知の方もいらっしゃるとは思いマスが
その水筒には、当時の“水”が入ったまんまなんですよ。
触れてみたら、丈夫でしっかり重くて
振ってみたら、中で水の弾ける音がして
一気に、いろんな“何か”がカラダ中に入ってきたカンジがして
「こんな“態度”は間違ってる。」って、すごく自然に実感出来た。
確かその後『ひめゆり資料館』にもまわったんだけれど
何しろ先のショックが大きすぎて、当時は殆ど覚えてなかったんだよね。
だけどひめゆりには、7年程前に機会があって
来沖して下さってた皆様とご一緒させて頂いたんデスけれど
初めて目にした当時なんかよりも、もっともっと悲痛に感じて
何度も何度も、いたたまれなくなってたっけ。
沖縄はこの時期になると、きっと終戦記念日よりもナイーブになります。
学校関係では沖縄戦の関連資料を展示して、県や国の関連行事も増え始める。
実はめぐ、そんな学校行事が大キライだったのね。
ウチの中学では学校の通路とかで戦時中の写真パネルを展示してたり
図書室に沖縄戦の関連資料をこれでもかとばかりに並べてあったりしてたの。
もうそれが、とにかく辛くって。
必ず通る通路に“それ”はあったから
自分で意識して目を逸らそうにも、逸らす事なんて出来なくって。
中学3年生の時かなぁ。
図書室の司書サンに「撤去の抗議をしよう!」って決めて。(^^;
「そんな辛く苦しい思いをして逝かれたのなれば尚更、尊死されてまで晒す事もないのに」
なんて
ホントに自分の感情優先に、泣きながら話した事があったのね。
そしたら
「辛くて苦しかった歴史だからこそ、もう2度と同じ過ちを繰り返してしまわないように
そんな恐ろしさを決して忘れてしまわないように目の前に置いておくんじゃない!」
なんて
同学年の黒九尾と英語担当教諭の里美ちゃんにスっゴく説教くらって。
デモ当時のめぐに、理解は出来ても納得なんて出来なくって
「だけど」「それでも」
を繰り返しながら、だんだん感情がぐちゃぐちゃになってきちゃったりしててさぁ。
それでもそんなめぐを、ふたりして何時間も絆してくれてたんだよね。
やっぱり、あんまり納得はしてなかったんだけど。
(あまり聞き分けがナイのは、殆ど変わってナイのカモ〜。。。(^^;)
ホントは
こんなに被害者意識丸出しなのもスキじゃないの。
いつまでも
「○○だ〜」「まだ○○〜」
なんて、声を張り上げ続けているのもどうかと思う。
だけど“コレ”は、既にそんなの超えてしまっている。
痛みを忘れてしまったらきっと、また同じ過ちを簡単に繰り返してしまう。
理由なんてすぐに忘れてしまう位、本当に些細なきっかけで。
『平和ボケ』だなんて
ホントの平和が作り出したジャンクなセリフに嫌気がさしてる態度で生きていくよりも
過去の犠牲や尊厳を忘れずに生きてく事の方が、よっぽどタフさを要求される。
かくゆうあたしも
メトロノームのような毎日に退屈を感じてしまっていたり
護られている証であった“制服”を、常識の鎖だと思い込んでいた。
何かを堪える事で強靭さは身に着くものだとも考えていたし
そしてそんなチカラさえあれば
例えば何かを失う事さえも、決して怖くはないものだと信じていた。
だけど実際は
堪えこんでたナニかの見返りにつくモノなんて何もないし
失ってしまう事すら怖くなんかないのは
それだけ大切に想える、大事なものが無いって淋しい証。
今のあたしは
痛みに耐える強さよりも、痛みを忘れない強さを持ちたい。
毎日のアタリマエを基準としない
ちゃんと自分の幸せを感じ取るチカラを感じていたい。
そう、思えてきた。
ソレなのに。
正午にはTVも消してケータイもバイブにして
黙祷する気マンマンで待っていたにも関らず
黙祷のサイレンが一向に聞こえてこなかったって〜のは、一体どーゆー事ですか。(怒。)
◇◆◇ めぐ。 |