実家のリフォームが完了し、仮住まいから戻る引越し。 この数か月、このプロジェクトは妹の献身的な支えで成り立ってきたけれど 最後くらい私もお手伝いしなくては、ということで行ってきた。
正味4時間くらいだけど、2部屋分カーテンを取り付け、 かなりの数の段ボールからモノを出し、段ボールを解体し…
見たことのない食器の数々にびっくり。 バカラのグラスなんてどこに隠してたのよ。 へっぽこグラス捨てて、バカラ使えばいいのに。
父は全くの役立たずで、何も片付けが終わっていないのに パソコンのセッティングを始めるテイタラク(英語っぽいなw)。
母はまだマシだけど、たとえば、キッチン周辺用品の入った箱を キッチンまで運んで開梱してあげて、さぁ片付けなさい! と指示出しているのに リビング側で私が壁面収納にしまうものを出して対応していると フラフラとリビング側に来てなぜか私のやることを見ているという…
こういうプロジェクトって、ヒトがやってないことをやるのが鉄則だろうに。 「次何すればいいかわからない」ってのも言ってたな。
1か所に長くとどまれないようなので、中途半端な部分があっても目をつぶって 都度、「じゃぁ次は夜寝れるようにベッドメーキングしなよ」とか 「洗面所の箱を開けて、この箱だけ空にして」とか 細かい指示を出してたんだけど…
子供がいるから甘えているの? 私が大人になって粗が見えてきただけなの? それとも加齢とともに判断力も劣化しちゃったの?
で、提題の認識に至った。
家族という枠組みの使命は、加齢・老化に対する心の準備の側面が大きいな、と。 体力や判断力が衰え、自立できなくなっていく。 それを子は自分で体験する前に、近しい親の出来事として間近で見ることになる。 死を受け入れる覚悟を形成するための装置としての家族。
私のトシだとまだ自分の死は遠いんだけど 親の死の想像がそろそろちらつき始めている。
今のところまだ、両親共に元気で、余生を楽しむ余裕もあるけれど そこに色々と制限がかかってくることが目に見えてきたとでもいうか。
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