仕事は忙しいけれど、旅行準備には余念がない。 着々と「予習」をこなしている。
友人は「予習好きだよね」と、 半ば軽蔑も含んだ口調で笑うけれど、 予習があるのとないのとでは、物事の見え方が全然違う。
もちろん予習がないと楽しめないとは言わない。 何の先入観もなしに物事を受け入れるのはそれはそれでいい。
ただ、知識がないと見過ごしてしまうもの、 そういうものを少なくしようと思うだけだ。
とある友人は、 「美術館に行って絵を見ないで説明を読むなんて信じられない」 と言う。
そこに圧倒的な本物の存在感があるのに、 何を説明文で補填しなくてはならないというのか?
でも私は説明文を割と熱心に読むタイプだったりする。 絵を見て、説明文を読んで、もう一度絵を見る。 短い説明文を読んだだけで、見方が変わることも少なからずある。
視覚情報の圧倒的なパワーは誰にとっても明らかだけれど、 私はより言語情報に惹かれるのだ。 それは人間の動物としてのプリミティブなパワーを手放したということなのかもしれないけれど。
こんなことを考えたのは『季節の記憶』(保坂和志)を 読んだからかもしれない。
いやもう、なんとも言えずいい雰囲気の小説なのだ。 主人公の息子のクイちゃんに私はメロメロ。
言葉がなくても思考は可能だし、生きていける。 でも、私はもう言葉から離れることはできないし、 言葉を奪われたら思考までも奪われる。
そんなことを、予習をしながら考えた。
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