いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2014年01月02日(木) いぬぶし秀一の歴史VOL1(昭和31年〜)

 新春の二日目、今日から二日間、私の軌跡を簡単にご紹介しようと思う。まず今日は生まれてからの半分約25年分程度を。

昭和31年12月2日午前9時55分 東京都北多摩郡国立町 内野産婦人科病院にて誕生。生まれた時は、寝て生まれたようで医師が尻を叩いて初めて「オギャー」と言ったらしい。

昭和34年頃両親離婚。私は父とともに暮らすことに。父親の違う姉千鶴子は、母の再婚先の鶴岡利通氏と養子縁組。

昭和36年 国立保育園入園 都営住宅で父と暮らす

昭和38年 国立町立第二小学校入学(高嶋方正先生担任 国語科)
この先生のおかげで作文が大好きになる)

昭和39年 父再婚 後藤ヒデが継母となる 小平市回町へ転居

昭和41年頃 後藤ヒデ離婚 実家へ

昭和42年8月1日 父康秀 虎ノ門病院で病死(胃癌、肺癌、肝臓癌)

昭和42年9月 伯父の家(千葉県市川市本八幡)に居候 市川市立冨貴島小学校転入。伯母とはいまひとつうまくいかず、伯父宅には風呂があるのだが、内風呂には入れてもらえず、銭湯通い。下着は、ギザギザのある洗濯板で自ら洗わされる。

昭和44年 市川市立第六中学校入学

昭和45年 実母鶴岡恵美出没 母の嫁ぎ先にに養子として入籍。鶴岡秀一に。立川市立第四中学校転入

昭和46年 生徒会役員立候補当選 軟式テニス部で立川市民大会2年連続優勝。学力考査は常に学年10位以内。

生徒会役員時代は、職員室に早朝忍び込み日教組掲示板を破るのが日課だった。卒業式にの会場(体育館)に、日の丸を掲げ、教員がはずしに来るのを生徒会役員が寝ずの番で死守した。

真っ赤かの社会科滝田教諭の授業終了時には「天皇陛下万歳!」と叫んでいた。

アマチュア無線に凝っていたため、母(中学校教員)から「72群(都立国立高校、立川高校)から電気通信大学へ行け」と言われ反発。

昭和47年 テニスの指導を受けていた立川市軟式庭球連盟指導員の筒井裕次郎2等空曹(航空自衛官)の勧めもあって、航空自衛隊生徒を受験。合格。第18期航空自衛隊生徒として埼玉県熊谷基地航空生徒隊に入校。(ちなみに、昭和47年度航空自衛隊生徒合格者は東京都内で3名!)

在学中は、ラグビー部(1学年)、剣道部(2,3学年、初段)、軟式テニス同好会(県民大会ベスト8)に所属。生徒会では副会長。

昭和49年7月〜自力で米海軍第7艦隊空母ミッドウエイ(横須賀基地)所属のクレイン海軍少佐宅に長期休暇の度にホームステイ

昭和49年12月 第18期生徒基礎課程(高校)修了

昭和50年1月 航空自衛隊第五術科学校第三分校(鳥取県美保基地)において第2期生徒自動追尾器材整備員課程(電子計算機基礎)入校

昭和50年2月 航空自衛隊第五術科学校第三分校第三課(島根県高尾山分とん基地)において第2期生徒自動追尾器材整備員課程入校

境港市に下宿(小板宅)。境港に「戦場にかける橋」という映画が来たので、平日の外出許可を学生班長に申請したところ「アカの映画だから不許可」とされ反発。学校始って以来の好成績(3すべて満点)でありながら、課程褒章をもらえず激怒。

昭和50年7月 同課程修了 同月 中部航空警戒管制団第44警戒群(千葉県峰岡山分とん基地)通信電子隊電子情報小隊に教育入隊(OJT) 階級 生徒空士長

昭和50年10月 渡米の為依願退職

昭和51年1月 米国カリフオルニア州パロアルトアダルトスクール入学
同月、カリフオルニア州自動車免許証取得(たった3ドル25セント)後に日本の免許証に書き換え!(無試験だった)

昭和51年4月 米国カリフオルニア州サンノゼ市サンノゼコミュニテイカレッジ(ジャーナリズム専攻)入学

同時に、ミナトすし店にて皿洗いのアルバイト開始。住まいは私設老人ホームの住み込み。

昭和51年6月 日本人向けホームステイ斡旋会社グローバルインタースタデイ(東京都)及びINTER STUDEY(本社スウェーデン)と契約。現地コーデイネーターを務める。

昭和52年1月 帰国。大田区西糀谷4丁目に6畳一間のアパートを借りる。

同月 横浜市港北区の旅行会社、株式会社オリエント観光に就職。同年10月一般旅行業務取扱主任者合格

昭和53年 上智大学ソフイアコミュニテイカレッジ(社会人講座)入学。会計学、経営学を学ぶ。特に会計学、明治大学の後藤弘教授の授業は楽しくて、以降会社経営では税理士いらずだった。

昭和54年5月 同社退職 インターツアー株式会社設立(運輸大臣登録旅行業代理店業2687号)22歳 (運輸大臣登録旅行業の史上最年少)

この間、バブル絶頂期で、広告を出せばあたる、とにかく売れて売れて仕方ない時代だった。

「今夜こそ私が上よ!神戸の船旅(2段ベットの旅)」「新人類フライデーブアムツアー(金曜日の深夜発)」「シングルルームに二人でうふふ(クリスマスの宿泊プラン)」「ねるとん屋形船」等、じゃらん、AB-Roadなど旅行媒体誌で時代の寵児に。

NHK以外の全民放に出演。代表番組、地球発24時、男が泣かない夜はない、11PM、トウナイト等。

昭和57年 結婚

昭和60年4月 放送大学教養学部入学 第1期生 まさか卒業まで25年かかるとは思わなかった

昭和60年12月 自衛隊忘年会で遅参して残った席に座ると隣席が、都議落選中の松原仁氏(現民主党国会対策委員長)だった。同じ年と知り、後援会に入会。このことが後に人生を変える出会いになる。

 ということで、29歳までをご紹介した。自分で書いていても波瀾万丈だったと思うが、実際のところ、本人はひょうひょうと暮らしていた感じである。

 それでは、第二弾は明日に書いてみたい。乞うご期待。 


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