2007年01月06日(土) |
なんと叔父がアスベスト被害患者に! |
今日は、新年の土曜日というのに何も予定がない。荒天の中、日頃疎遠になっている姉と叔父を訪ねるべく、東京多摩地区へ車を走らせた。
私には、それぞれ8歳年の離れた姉と弟がいるが、いずれも母は同じだが父が違う兄弟である。学校教員だった母は、中国ハルピンで姉の父と結婚。その後、私の父と出会い離婚。私が誕生して数年で、弟の父と駆け落ち同然で結婚、という経歴を持っている。当時としては、飛んでいる女だったようだ。
姉は、中学生になるまで、私の父を本当の父親だと信じていたらしく、今でも「お父ちゃん」と呼んで墓参りにも来てくれる。可愛そうに、彼女は苗字を4回も変えているのだ。まあ、それでも、ずっと母親と暮らしていたのだから幸せだったろう、と思っていたが、どうもそうではなかったようだ。弟は、両親の溺愛を受け、駐日米軍内の高校から米国の大学、大学院にすすみ、現在は外資系のコンサルタントとして活躍しているようだが、どうも日本人的な情実に欠けていて、実父一人の実家には年に1、2回しか顔を出さないらしい。
さて、60歳近くになるのに元気な姉と待ち合わせて、叔父の家へ向かう。この叔父夫婦には、高校で家を飛び出してから、随分と世話になった。米国から一時帰国して行くあてもない時、羽田から直行したのは、この家だった。
ご無沙汰をお詫びして、歓談していると、叔父がなにやら資料を持ち出してきた。「健康管理手帳」なる薄茶の手帳を見せてくれた。な、なんとアスベストによる胸膜プラークとあるではないか。
叔父は、平成9年に退職するまで、長く港区内にある、ある公益法人に勤務し、この法人が所有する会館の管理をしていた。この機械室の内装材やボイラーの耐火皮膜にアスベスト含有材料が含まれており、それが叔父の体を蝕んでいたらしい。
私は、昨年、お役人のアスベストに対する認識の甘さに激怒して「石綿(アスベスト)作業主任者」の資格講習を受けた。その時、習った数々の言葉が叔父の口から出てきた。アスベスト被害が怖いのは、その吸引から発症まで30〜50年もかかることだ。本人も何が原因かわからず、通常の肺癌と診断されることも多い。叔父の場合は、アスベスト被害の重要な指標である胸膜プロークが発見されたので、労災認定されたらしい。
ただ、その認定の道のりは簡単ではなかった。まずは、雇用者だった公益法人に、労災認定の書類に証明印をもらいに行ったところ拒否をされたそうだ。そこで、労働局、労災病院、地元保健所、NPO、独立行政法人と、ありとあらゆる機関に相談し、助言をもらい、発見から1年後の昨年、ついに「健康管理手帳」を取得(労災認定)したという。その間の出来事一切を時系列に記録した書面を見せられ、思わず涙が出てしまった。よくぞ頑張ったな、と。 叔父が大田区内の東京労災病院まで何度も通っていながら、まったく知らなかった自分が情けなかった。
診断書によれば、一年前には片肺のみに見られた叔父の胸膜プラーク。昨年の検診では両肺に広がっていた。発症はしていないが、病魔は確実に体内に巣くっている。
大田区にも多くのアスベスト関連工場があった。そして、その周辺被害については、まったく不明である。また、区営住宅、都営住宅でも、お役人の「他人事」意識による、危険なアスベスト除去工事がすすめられていたことがある。さらには、叔父の勤務していた公益法人が経営する会館の、なんとイベントホールの天井には、今もアスベスト含有建材が撤去されずに使われているそうだ。
国や地方自治体の管理する建物のアスベスト対策は、相当進んできたが、残念ながら、このような民間建物や、民間の解体現場では、アスベストという言葉すら説明されず、作業している人々が、今日もアスベストを浴びているのだ。彼等が、発症するのは、30年以上後。国や自治体は、より一層監視を強め、雇用主、施工主の責任義務を明確にした関係法令の整備をすすめるべきである。
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