いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2005年12月18日(日) 放送大学 現代社会論  面接授業レポート

テーマ「家族の定義づけが困難な理由」                             犬伏 秀一

 結論から述べると、今日の家族をめぐるあらゆる問題の根源は、昭和20年12月10日に発せられたGHQのwar guilt information(日本贖罪心理作戦?)にあると思っている。
連合国は、二度と日本が敵意を表さないようにと、新聞、放送など、あらゆるメデイアに対して、徹底した日本バッシングを要求した。その結果、我が国の伝統的な家族制度は解体させられ「ヒドイ国だ」「とんでもない国」だという刷り込みが、教育現場でも行われてきた。さらには、米国の「権利意識」だけが取り入れられ、義務の伴わない希薄な権利主張が世の中に蔓延ってしまった。

 そして、世の中のあらゆる権威を否定することが「民主主義」であり、「自由」であると誤解した一部マスコミや日教組などの教員によって、国家や国旗、学校では校長などの「権威」は崩壊していった。その中のひとつに「オヤジ」の権威もあったのである。つまり、戦前では厳然として家庭内の権威は「家長たるオヤジ」にあり、厳しい父性と、優しい母性により、家庭の調和が保たれていた。ところが、戦後、取り違えた妙な平等意識のもと、この性差による役割分担としての権威も否定されてしまった。母は言う。「勉強しないと、お父さんのようになってしまうわよ」これでは、子ども達は、何を価値観にして生きていけばいいかわからなくなってしまう。

 昨今、児童を対象にした凶悪犯罪が多発している。その犯人に共通している特徴は、常に「教育熱心な母」がいることだ。保育や幼児教育の現場での「問題児」の家庭の象徴的特長は「優しい父親に、厳しい母のいる家庭」であることは、誰しもが認めるところであろう。

 いかに世の中が多様化し、価値観が変化しても、絶対に変わらないこと。それは、我々人間が、ホモサピエンスという動物の一分類であり、その属性の中の雄と雌である、ということだ。このことは、なにをもってしても変えがたいことで、その性差や本来その種がもっている雄雌の役割を「後天的」なものと否定するような昨今の風潮は、家族そのものを否定しかねない危険な考え方でさえある。

 万一、母性や父性というものが「後天的」かつ社会から刷り込まれたものだとすれば、我家の前を流れる多摩川のカルガモの母親には、誰が「子ガモ」を連れてエサを食べさせろ、と刷り込んだのだろうか。カマキリさんのメスに、交尾が終わったらオスを食ってしまえ、と誰かが教育したのだろうか。家族の定義が難しくなったのは、この男女の役割分担さえも否定しようという、おかしな平等意識が根本にある。

 福祉国家の象徴のように言われて久しい、スウェーデンにおいては、離婚が頻繁に行われ、子ども達は一体誰が親なのか、父なのか、家族の価値観、存在感を完全に喪失した結果、「子育ての社会化」というスローガンとは無縁な、凶悪犯罪の低年齢化が起こってしまい、国家的問題にさえなっている。

 一昨日、ある子育て支援団体の幹部と話していると、この幹部からビックリする話を聞き、わが意を得たりと嬉しくなった。この団体は、「子育ては両親協働」がモットーである。しかし、この幹部はこう語ったのだ。子育てに詳しい精神科医によると、子どもにとって、最も良い親は「母親」だということは、精神科医の間では広まりつつある、と。
両親が助け合って子育てをすることに異論を述べるつもりはないが、母性は間違いなくある!のだから。

 あなたらしければいい、という薄っぺらなフェミニズムによって、安易な出産、離婚が多発した結果、家族の本来の形が崩れ去っていく。DVや、死別などによる一人親は止むを得ないし、おおいに社会が支援すべきであるが、結婚したけれど、いやになったから離婚。行政に支援を求める?おかしな世の中ですらある。

 世の中には、変えてもいいものと、変えられないものがあると思う。家族とは、太古の昔から変えてはいけない、人が生きていくための最も小さな集団である。そして、その集団が産み出だした新たな生命体が、もっと大きな集団で起こす問題行動の根源は、残念ながら、最も小さい集団にある。世の中が如何様に変化しようとも、家族のあり方を変えるべきではないし、そのことを変えようとすることが、今日の日本社会の病巣の原因である、と言ったら言いすぎだろうか。

 

 



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