いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2003年11月15日(土) 問答無用!オヤジが言ってるんだから駄目

 今日、中学2年の娘が、仲良しグループとボーリングに行くという。ついては、終わった後に、おしゃべりを公園でするので、帰宅が午後10時頃になるがいいか、と妻に聞いてきた。妻は、9時ならいい、と答えたらしい。それを聞いて私は、即刻「ダメ。8時には帰って来い」と言った。

 8時を過ぎて、公園に中学生が大挙して集まっている姿を想像しただけでも、おかしい。娘は、反論しても無駄だと知っていて、わかった、と出かけていった。

 戦後日本の教育は、児童・生徒に対する「いい訳教育」に終始している。常に「○○だから」と、いい訳をしながら教員が、親が、子どもたちの指導をしている。よく喫煙している中学生が「先生が吸っているのに、なんでダメなんだよ」と、教員に詰問している。バカ野郎!中坊はダメなんだ!それでいい、と思う。ところが、「民主教育」とか、いうヤツは「発達段階におけるニコチン摂取は‥‥」などと、言い訳を添えて、「児童・生徒に理解を求める」らしい。ぶっ飛ばそうものなら、人権侵害で損害賠償を取られ、教員は退職金をもらえる「権利」までも奪われてしまう。

 松戸の保育園では、保育参観をさせるかどうかの判断は「こどもの権利」だと、乳幼児に聞いたらしい。バカもんである。よくフェミニストさんや、「平和人権教育」に造詣が深い方々は、「子ども権利条約」を引き合いに出されるが、子どもの権利とは、人として尊ばれる権利、教育を受ける権利、幸福になる権利など、いわいる基本的人権と呼ばれるものであるはずだ。

 そもそも権利とは、義務を果たさないものには主張できないものだ、と思っている。戦後の、言い訳教育は、権利の主張に力点を置きすぎ、義務の履行を忘れてしまった。教員が、勤務中の式典で国歌を歌わない、などは、この好例である。公務員として法令遵守の義務を忘れ、歌わないという個人の権利だけを主張しているのだから。(まあ、わかんねぇだろうけどな)

 ある教育問題専門家が、カナダのスーパーで、おもちゃを買ってとダダをこねる子どもに母親が一言「パパがダメと言っているから絶対ダメ」と。感動した、と語っていた。これでいい。理由なんかいらない。ダメなものはダメ。教育の原点だと思う。

 8時前に帰宅した娘は、夕食を共にしながら、今日あったことを楽しいそうに話してくれた。そして、最後に「私が、8時に帰る、と言ったら友達の、ほとんどが一緒に帰った」と。ああ、ダメと言って良かった。


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