パラダイムチェンジ

2006年07月31日(月) 現代霊性論

土曜日、朝日カルチャーで行われた内田樹と釈徹宗和尚の対談講座、
「現代霊性論」を聴きに行ってきた。
このお二人の話を聞くのは、昨年ジュンク堂で聞いて以来の2回目で
ある。

お話は、新作映画「スーパーマン」が実は○○だという話に始まり、
「嫌われ松子の一生」は宗教性あふれる映画だとか、何故私たちは
韓国映画に感情移入できるのか―アジアでは他の地域と異なり、
宗教的な対立はない―など、現代の霊性というか、宗教性についての
お二人の考察が面白かった。

その中で、一番印象に残った言葉は、お二人が「霊性」という言葉を
使うとき、そこには「関係性」とか、「つながり」という意味を込めて
いる、という言葉だった。


でも、そうだと思うんだよね。
以下、誤読というか勘違いを覚悟で、自分なりに掘り下げてみると、
人が「霊」とか「魂」とか「スピリチュアル」なものについて語ろうとする
時って、そこには関係性の問題があるんじゃないのかな、という気が
するのである。

最近は、江原啓之をはじめとして、スピリチュアルな癒しという物に
対する関心が高まっているように思える。

でも、そこで「魂」の問題、「霊魂」の問題にされる時って、関係性が
過剰になっているか、足りていないのか、のどちらかなんじゃない
のかな、という気がするのだ。

妖怪や怪異研究家でもある、京極夏彦の妖怪小説に出てくる、怪異や
妖怪も、普通の論理では片付かない、関係性の問題によって現れて
くると思うし。

つまり例えば自分では納得できない、何か不条理なことが起きた時に
その現象を説明するために生み出されたのが妖怪である、というのが
京極夏彦が妖怪や怪異を扱うときのスタンスだと思うんだけど、これ
って、つまりは、関係性が上手くいっていない理由の説明として、
例えば何かが「足りない」場合、その理由の説明として、ベタな理由で
いうならば、水子の霊で説明されたり、また「過剰」な場合、例えば
それを何かが憑り付いている、という物語で説明している様な気が
するのである。

そして説明された方は、その例えばその不条理なことの理由が、現世
にあるのではなく、時空を超えてつながっている「前世」だったり、
この世のものではない何かによって起きているんだ、という因果を
知ることにより癒される、というのが現在のスピリチュアルブーム、
癒しの仕組みなのかもしれない。

で、本来はそういう物を扱うのって、伝統的な宗教によって取り扱わ
れていたんだと思うんだけど(だからこそエクソシストの様な悪魔
祓いは牧師だか神父の役割だったんだと思うし)、現代の特に日本で
は、伝統的宗教の力が弱まってしまったからこそ、そこに霊魂や、
前世を語ることの出来る、スピリチュアルカウンセラーのような人
に惹かれる人が増えているんだと思うのだ。

もしくは、今回も釈和尚がちらっと話題にした、現在問題になって
いるらしい新興宗教とか、カルトとかね。
それこそが「現代霊性」の問題として、釈和尚がなんとかしたいと
思っている、というのが今回の対談を貫いていたテーマなんだと思う
のである。


魂と関係性ということに関連するならば、臨床心理学者の河合隼雄と
哲学者鷲田清一の対談本「臨床とことば」の中にこんな一節があるの
を思い出した。
以下引用すると、

鷲田 僕、先生と向かっていろいろじっくりお話しさせていただくの
   は今日が初めてなんですけど、実は、先生の次男でやはり心理
   学者の俊雄さんとは面識があります。あるとき彼がもらした
   言葉に目からウロコが落ちました。と言いますのは魂の話で、
   僕はずっと、心とからだの関係を哲学史の中でいろいろ勉強し
   て来たわけです。

   心とからだの関係があって、魂はからだと別のところで考えて
   いたんですけど、彼がボソッと変なこというんです。これは
   ユング心理学の理論に入っているかわからないんですけど、
   「からだが魂ちゃうか」と。で、その中を私というのが出入り
   しているんちゃうかと。今までそういう発想をしたことがなか
   った。

   自分と魂をくっつけて考えるけど、自分と魂を離し、魂と身体
   をくっつける。その河合君の言葉と、ミシェル・セールという
   哲学者の言葉が、僕の頭を本当に切り替えてくれました。

   デカルト以降、ものには大きさがあり広さがありかたちがあ
   る、でも心にはそれがない、だから心には場所がないのだ、
   昔から心はハートにあるとか、のどにあるのか目にあるのかと
   やってきたけど、本当はそんなのないんだ、という理論です。

   それに対してミシェル・セールは、皮膚と皮膚が合わさるとこ
   ろに魂があるといいました。僕らが思うに、それは考えている
   ところにある。足を組んでいたら太ももにある。目をぐあーと
   あけたら、目にある。唇をかみしめたら唇にある。魂というの
   は、からだの折り合わさった、自分と自分が接触するところ、
   そこにあって、たえず身体のいろんなところに移動しているん
   だと。

河合 面白いね(略)

鷲田 河合君の言葉と、ミシェル・セールの言葉は、今まで僕は魂を
   避けていたんですが、こういう言葉だったら、魂という言葉を
   リアルに語れるかもしれない。それ以来少し気が楽になりまし
   た。

河合 それはすごく面白い、魂を求めているんだけど、何をしていい
   かわからない者がセックスするんですよ。皮膚と皮膚が接する
   こと。だから、セックスは意味が深いのだけれど、皆それが魂
   のことだとわからんから、皮膚と皮膚の接触でどんなに気持ち
   いいかと、全然話が別のところに行く。(以下略)



この「魂とは、皮膚と皮膚の合わさるところにある」というのは、私の
様に人の肌に触れる仕事をしていると、よくわかる気がするのだ。
それはすなわち、相手の身体に触れているときに、なんというか、
相手の魂みたいなものに触れていると考えて仕事をしている方が、
こっちの感受性も増すし、仕事の成果も上がる気がするのである。

まあ、それがプラシーボ効果だと言われれば、反論できないけど、
でもそれで成果が上がるならいいんじゃないかな、という気も
するし。

そして、その事を除いたとしても、例えば、私が私の心を意識する
時って、自分の感覚器官が何も働いていない、無意識の時ではない
と思うんだよね。

つまり、心っていうのが、脳内での神経伝達物質による、スパーク
というか、脳細胞の興奮の蓄積であったとして、その脳細胞の興奮
っていうのは、何か感覚器官を経て得られた情報に対するリアクショ
ンなんだろうと思うし。

で、あるならば、逆に言えば例えば目隠しされた状態で、自分の皮膚
が何かに触れた時、それが何であるのかを注意深く探ろうとしている
私の指先には、魂があるといえるのかもしれないし、また、何かを
凝視している時には、視神経の興奮しているところに魂(の一部)が
あると考えてもいいんじゃないのかな。

で、人間の場合、皮膚と皮膚の接触だけでなく、それは言葉を聴き
取ろうとしている時にも当然、魂はそこにあるんだと思うのである。
だからこそ、言葉の呪力っていうのは、強いんじゃないかなあ、
なんて思ったのでした。

で、その霊性や、魂という「関係性」や「つながり」の問題がこれほど
注目される現代社会っていうのは、逆に言えばそれだけ「関係性」や
「つながる」ということが大変だということなのかもしれない。


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