2004年04月24日(土) |
自己責任という言葉の危うさ |
と、言うことで、もういいかげん、いいんじゃないか、という話も ある自己責任について。
よく考えると、この言葉、二つの意味で、安易に使うのはやばいんじゃ ないかな、と思いついた。
その一つ目の理由は、 お前の行動は、自己責任である、と言われてしまった方の立場としては その言葉に反論できない、というのがある。
お前の行動は自己責任だよ、と言われて、その言葉にどう反応すれば いいんだろう? だって、その言葉には、具体的にどうせよ、という意味が含まれて いないような気がするのだ。
例えばじゃあ、どうすればいいんですか?と聞いた所で、 そんな事はお前が考えろ、と言われるか、こっちの言う通りにして いればいいんだ、なんて言われるのがオチだろう。
内田樹著「子供は判ってくれない」 の中に、田口ランディのエッセイをひく形 で、こういう記述がある。 例によって、私は引用を効果的にひく事が苦手であるので、もしも 文章を読みたいと思う人は、こちらの内田樹の日記サイトの11月10日の 項をどうぞ。
「呪い」というと大仰に聞こえるかも知れないけれど、田口ランディさんによると、それはごく日常的に行われていることだ。 (略) 呪いの言葉というのは明瞭ではおかしい。相手を縛るためにはまず不明瞭であることが重要なのだ。よって人は呪いをかけるために、不明瞭な反復を行う。理解不能だ。
なぜなら呪いは理解を嫌うからだ。理解されては呪いにならない。
『あなたのためだけを思っているのよ』『なにが気に入らないのかはっきり言ってよ』『おまえ俺をナメてんのか』『お願いだから私のことも分かって』『俺はお前のことだけを思ってやってるんだ』などは典型的な意味不明の呪いの言葉だ。この言葉を繰り返されても、相手は答えることができない。相手の答を封印しつつ、答えられない質問を繰り返すことで相手を呪いにかけているのだ。呪いの言葉をかけられた相手は沈黙するしかない。答えは最初から封印されているのだ。(・・・)呪いの目的は相手を遠ざけるためではなく、相手を縛るためなのだ。呪いを操る者は必ず相手のそばにいる。」(『根をもつこと、翼をもつこと』)
今回の、「自己責任」問題も要はこういうことだったんじゃないの かな。すなわち、言った方はスッキリし、言われた方は途方もない 疲労感に囚われるのは、それが一種の呪いとして働いているからで あり、また「呪い」の目的以外に、なんら意味はない言葉なんだと 思うのだ。
で、一番のこの問題のガンは、言っている方がその言葉が「呪い」と して働いている、という事を自覚していない、という事なんだと思う。
そして、普段から日本に生きる私たちは、同じような「呪い」の言葉に さらされているが故に、もしかするとその辺、鈍感になりすぎている んじゃないだろうか。
また、もう一つの問題は、結局、この自己責任騒動の影で、日本政府の 責任といったものが、結局うやむやになってしまった事もあると思う。 この件に関しては、東京新聞のこの記事が興味深かった。
で、じゃあこれで、小泉首相をはじめとする政府関係者や、自己責任論 を振りかざした大人たちは、めでたし、めでたし、となるのだろうか?
個人的にはそうはならないと思う。 なぜなら、この「自己責任」と言う言葉、言われた側の人間にとっても 都合のいい言葉だと思うからである。
例えば、合法(脱法)ドラッグをやっている若者たちが、 「ドラッグ決めるのは、自己責任」 プチ家出少女が家出するのも「自己責任」、援助交際するのも「自己 責任」と、居直ったら、大人たちは一体どう反論をするというんだろ うか。
結局この言葉って、対話でなく、関係性を切る上ではとっても便利な 働きをする言葉なんだと思うのである。 だから、この先、今年から来年あたりにかけて、もしかしたら「自己 責任」と言う言葉は流行ってしまうんじゃないかな、なんて気がする のだ。
というより、もうすでに日本はそんな国になってしまっているんだろう なあ。
だから、出来ればあの政府の方々も、自己責任なんて言葉で済ますん じゃなく、 「知っていると思いますけど、政府も色々と大変なんです よ〜、もちろんやれるだけの事はさせてもらいましたけど、その辺の事情を 斟酌して、出来ればあまり無茶はせんといてもらえますか?」 みたいな物腰で来れば、あの被害者たちも、「それは大変すみませんでした」 みたいな感じで、軟化した態度で深く反省したような気もするんだ けれど。
でも、そういう大人のいやらしさあふれる大人の態度って言うのも、 それはそれで嫌なもんかも。
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