9月15日は敬老の日である。 でも敬老の日、というとどうしてもおじいちゃん、おばあちゃんを大事に して、ねぎらう日、というイメージがある。
ここで唐突に話が変わると、我が家にも既に老齢者の年齢に達している 親がいる。 でも、その親を前にして、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にしましょう的には、大事にしようとはあまり思えない。
なぜなら、ちっとも老人ぽくはないからである。 まあ、そんな風におじいちゃんとして大切にしてくれそうな孫の見る影も ないことも原因の一つなのかもしれないが。
でもうちの父親に限らず、普段仕事でそういう年齢の方たちと接する事の 多い私としては、あんまり老人を老人扱いしても意味ないんじゃないかな ー、なんて思ったりもする。
仕事柄、60、70は言うに及ばず、時には80台の患者さんに会うこと もあるんだけど、彼らを見ていても、あまり老人らしさは感じられないのだ。 なんつうのかな、まだまだ老人なんて範疇ではなく、一人の人間として 元気に生きてます、って人たちが圧倒的に多いのだ。
とまあ、前提が長くなってしまったんだけど、 そんなまだまだ若い?老賢者たちのお話を聞きに、ほぼ日刊イトイ新聞主 催のイベント、「智慧の実を食べよう」に行ってきたのだった。
5人の方たちのお話と言うか講演を6時間にわたって聞きにいくという、 行く前はそれって果たして面白いの?という半信半疑な企画だったけど、 行ってみると、掛け値なしに楽しかったのだ。
例えばパンフには、宗教学者中沢新一の、吉本隆明を評するこんな言葉が 私の目を引いた。
吉本隆明は自然体の思想家である。私が吉本さんの思想から学んだことの中で、いちばん心に響いているのは、人間は観念的な思考をする ようになると、すぐに自然の状態からはずれてしまい、へたに頭の働きが 活発だったりすると、それだけでもう病気なのだという、おそろしい話だった。
観念的な思考はかならず、いったん人間を病気の状態にしてしまう。そこで ほんものの思想家だけが、徹底的に考え抜くことをとおして、自分がおち いっている病気の状態から脱出しようとするのである。そして、悪戦苦闘 の末にようやく自分を縛っていた思考のシステムから自由になれたとき、 その人の前にとてつもなくゆったりした「普通」の世界が広がっているの が見えてくる。そういう「普通」にたどりつくことを最終の目標にしてい ない思想などは、どれも病気の産物にすぎないもので、たいしたものでは ない、という考え方である。
詳しくはそのうち、本になったりDVDになったりするらしいので、その時にでもまた、引用したりするかもしれないけれど、 とにかく皆さん70、80近くだというのに、とにかく若いんである。
枯れてない、というのか老いすら楽しんでいると言うか。 今回は5人の老賢者さんたちのお話だったんだけど、特に印象に残ったの は、あの小野田さんこと小野田寛郎さんと、詩人の谷川俊太郎さんだった。
いいなあ、あんな風なチャーミングな老人になれたらいいなあ、なんて しみじみと思ったりして。 智慧の実、というか、元気の素をもらったような、そんなイベントだった。
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