2003年07月07日(月) |
「めぐりあう時間たち」 |
今日は映画ネタ。 今回見た映画は「めぐりあう時間たち」。 ニコール・キッドマンが、アカデミー賞主演女優賞を取った事で 有名なこの映画。 この映画を見た友達から、面白いよ、と薦められ、もうすぐロードショー は終わっちゃうなあ、と思ったので観にいってみる。
さて、この映画、一言でいうと、「とても不安定な感じのする映画」 である。 あまり元気のない人は、ちょっとよしといた方がいいかもしれない。
正直、男としてこの映画を見るのはちょっとつらい部分もあったり。
ただし、それは、この映画がつまらないという訳ではない。 ただ、ちょっと重いテーマを扱っている映画なのである。
映画は、1920年代に小説「ダロウェイ夫人」を執筆した、二コール キッドマン演じるヴァージニア・ウルフと、1950年代に、その本を 読んでいる、ジュリアン・ムーア演じる、ローラ・ブラウンと、2001 年のNYで、恋人に「ダロウェイ夫人」と呼ばれている、メリル・ストリ ープ演じる、クラリッサの、3人の女性が綾なすストーリー。
ごく普通の、何気ない一日の中の、でもその人の人生を左右する、一日 を描いたストーリー、とでも言えばいいのだろうか。
全くの予備知識もなしにこの日記を書いているんだけど、この映画にも 出てきて、ストーリーのベースとなっている「ダロウェイ夫人」も、 どうやら、ある女主人公の一日を追った、不思議な作品であるらしい。
で、この映画には実は原作があって、それを映画化した作品らしい。 本も買ってみようかなあ、とも思ったが、文庫化していないので、二の足 を踏んでしまった。
で、この作品、その3人の女性の、1日を追っていく作品なんだけど、 見ていく間中、どこか不安定な感じのする映画なんである。
不安定なのは、作品として稚拙なのではなく、その主人公たちの心理 状態の不安定さが、そのまま私に伝わってくるから、不安定な感じが するんだけど。
とりあえず、この3人、異なる時代を生きていて、特に接点があるわけ でもない、すなわちSFではないんだけど、その不安定さの原因は、 時代を超えて共通するとでも言えばいいんだろうか。
3人の人生の中の1日を描くことで、不思議な共通点が、段々と あぶりだされてくるような、そんな作品なんである。 なんか、うまくは伝えられないけれど。
で少なくとも、私が感じることの出来た、その共通点って、男としては、 ちょっとつらいものだったんだよね。
以下、ちょっとネタばれ気味なので、要注意。
男は、彼女たちの幸せを願い、ある意味では自分を犠牲にしてまで、 「彼女のために」生きている。
でも、じゃあそんな風に用意された、一見とても幸せそうな家族に囲ま れた生活が、当の彼女にとっては、単に息苦しいものだったとしたら。
そしてその彼女自身が、その人生が「彼氏のために」生きることを強要 される人生だと感じてしまったとしたら。
善意の積み重ねが、必ずしも幸福を運んで来てくれる訳ではない。 善意を積み重ねることだけに終始して、そこで何かを見落としてしまった 場合、その幸せにしたいと思っていた、善意の積み重ねは、ただ単に 相手にとっての「重荷」にしかならない、のかもしれない。
そして、その何かの欠落こそが、その人を不安定にしてしまうとしたら。
昔、第三舞台の演劇「宇宙で眠るための方法について・序章」の中に、 ケダモノ大王こと筧利夫と、ケダ三こと小須田康人の、こんなやりとり があったのを思い出した。
「ケダ三、お前は今幸せか?」 「はい、ケダモノ王になって、なんか肩の荷がおりたようにとても楽に なりました」 「確かに、お前は見違えるように、楽になった。でもお前の荷物が、 私の肩に乗るようになったんだよ」(略)
「お前は一体どこに向かうんだよ。そんなのは愛じゃないね。 それは暴力だね」 「それでも、それでもいいから、私は側においてほしいんです」
そして、こういう風景は、実は今の日本ではよく見かけるものなのだと 思うのだ。 いわゆる「いい人」の恋愛ってこんな感じかもしれない。 というより、ちょっと前までの私自身が、こんな感じだったかもしれない と、思うからこそ、ちょっとつらい部分もあるんだけど。
結局は、「誰かのために生きる」という考え方をやめるしかないんじゃ ないのかな。 「誰かのために」することだって、結局は「自分自身がしたいこと」で あるわけだし。
ただし、これは皆が皆、自分勝手に生きましょう、と単純に言っている 訳ではない。 ただ、「他人のため」というおいしい?仮面をかぶることで、自分の 重荷を減らすことは、もしかしたら卑怯なんじゃないかな、と思うのだ。
だって、その重荷は、その誰かのために生きられている、相手の肩に 乗っかってしまうんだから。
そうではなく、これは山田詠美が書いていた事なんだけど、他人のために する事だって、結局は自分がしたくてしている事なんだ、という自覚と、 それをむやみに押しつけず、時としては他人を自分が傷つけるという 責任と覚悟?を持つことが、よりいい人間関係を築いていく上では重要 なんじゃないのかな、と思うのだ。
映画の最後、1950年代の主人公、ローラ・ブラウンは、自分のために 「ある決断」をする。 彼女が、その決断をしたことが、後々で、様々な結果を導いてしまう事に なるんだけど、彼女は最後にこう言い放つ。 「誰にも許されることはないだろう。でも私は、私の行動に責任を持つ」 と。
自分の本当の幸せを願うことが、他人を不幸に追いやることだったと したら。 それとも、自分が我慢をすることで、他人が幸せな人生を送れると したら。 その時、果たして私は自分の幸せだけを追求することができるだろうか。
結局は、どこかでお互いに「自分のために」生きることの折り合いを つけていけるからこそ、皆なんとか幸せを感じて生きていけるような 気もするんだけれど。 うーん、なんか難しい宿題をもらったような、そんな映画だった。
でも、この映画って、原作者も、そして監督も男性なんだよね。 それなのにこれだけ女性の心理に真っ向から立ち向かっているのは すごいかもしれない。 女性から見たら、どうなんだろう。
この映画を見終わった後、ヴァージニア・ウルフと同時代の作家と 言ってもいい、アガサ・クリスティーの恋愛小説「春にして君と離れ」 を思い出した。 この映画が面白いと思った人にはオススメかも。
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