今回は、まとまらない言葉の続き。 さて、個人的に言葉で表現するということは、言葉で画を書く ということなんじゃないかな、と思っている。
すなわち、自分の頭の中にある、一枚の画を言葉で描写していく のが、表現ということなんじゃないかと。
頭に浮かぶ画を、写実的に、まるで写真のように描写する人も いれば、抽象画のように描写する人もいる。 浮世絵のように、平面的な画にする人もいれば、立体的に、 そして遠近法や空気の透過法?みたいなのものを使う人もいる。 そして、カラーだけでなく水墨画のような人もいるかもしれない。
画を書く方法は様々であり、それがその人の表現方法というか、 個性というものなのかもしれない。
そしてそこに描かれた画がどれだけ人に伝わるか、心を動かすか というのが、表現力なんじゃないかな、という気がするのだ。
だから頭の中に豊かなイメージを描ける人は、どんな表現方法を 用いるにせよ、表現力も豊かであるという言い方ができるかも しれない。 頭に浮かんだイメージを忠実に描写していけばいいのだから。
そして、個人的な印象で言えば、思いが言葉の表現を上回って しまうというのは、次のように例えられるんじゃないかと思う。
例えば、一人の人の肖像画を言葉で描いてみるとする。 画として完成させるのであれば、例えば正面から見えたこと だけを描いていけばいいのだけれど、 どうしても、側面から見た画をも表現してしまいたくなって しまうようなものかもしれない。
そう、更に例えれば、まるでピカソの描く絵画のように、 一つのキャンバスの中に、二つの視点が入り込んでしまうのだ。
一枚の画としての、完成度というか表現方法としては、 正面からの画だけに固定した方がいいのかもしれない。
何も、頭に浮かんだこと全てを言葉のキャンバスに書き写す 必要はないし、何を省略するのかということも、実は表現する 上では重要な事なんだと思う。
自分の想起するイメージをそのままキャンパスに書き写して しまうと、本当に伝えたかったものは何なのか、焦点が ぼやけてしまうことはよくあるのだし。
だが、その上で、言葉という二次元?のキャンパスに、立体的な 画を書いてみたいという誘惑もやはり捨てがたかったりするのだ。
もちろん、ピカソほどの勇気と才能があれば、それも可能になる のかもしれない。 ただし、それが必ずしも万人に受けるとは限らない。
でも、言葉による表現では、それが本当に伝わるかどうかは 別として、もっと高次元の世界を描写できる可能性だって あるような気もする。
まあ、それはもしかすると電波系か、宗教家の表現方法といえる かもしれないが。
そんなわけで今後この日記ではもしかすると、そんなピカソの なりそこないの、習作のような言葉もでてくるかもしれない。 と、表現するということについて、今思うことを書いてみた。
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