掛川奮闘記

2008年10月01日(水) 081001_補完性の原理

 「補完性の原理」という言葉があります。

 意味をWikipediaで調べると「補完性原理(ほかんせいげんり)とは、決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念」と書かれています。

 地方分権の議論では必ず出てくる言葉で、地方自治体に国の権限を委譲せよ、というときの根拠としてよく使われています。

 つまり、基本的な責任は個人や家族を始めとして尊厳を持った、より小さな存在がまず担うべきである、という基本的な考え方のこと。そういう原理をもった上で、個人や小グループでは行えないことをより大きな団体が補い、担うべきだと言う考えです。

 この理論で語られるのは、現在の国(霞ヶ関の官僚たち)は本来都道府県や市町村が行うべきことがらの権限をもちすぎているので、その権限を市町村、都道府県に渡すべきである、ということ。

 私もこの考えにはおおむね賛同をしていますが、どの権限をどのように国が手放すべきなのかは大いに議論をするべきだと思います。

 それは一つの権限には、さらに複雑な権限・責任が複雑に絡み合っているので、シンボリックなものを取り上げてみても、社会全体がうまく機能するかどうかまで見極めて欲しいからです。

 社会の複雑さは一般の市民国民には不便や苦労を招かないようにお役人機構が一生懸命調整を図っているのですが、どれだけ複雑化を「見える化」するのはなかなか難しいですからね。

    ※    ※    ※    ※

 そして補完性の原理が示していることは、より小さな存在が一義的な責任をもつ、という強い生き方を前提としていると言うことです。

 自分の不満を社会に向ける前に、本来自分自身がコントロールすべき事や自分自身に権限はあったしやる責任もあった、と思うことが出来るでしょうか。

 健康保険の負担率が上がるなら、自分自身が普段から健康を維持して簡単に病院に行かないような生活を実践することは可能なはず。酒もタバコも食べ過ぎも、自分でコントロールできることなのではないですか。
 そうした生活を心がけていながら、それでもかかってしまう病気に対して皆が支え合って少ない負担で医療サービスを提供するというのが本来の社会のあるべき姿のはず。

 自分の町のことだって、そもそも自分たちが出来ることはもっと多いはずで、自分たちがさんざんやってなおできないことをみんなの税金で達成するのが市町村という共同体の役割。
 「やってもらわにゃ、損だわな」なんて、住民のさもしい根性は願い下げです。

    ※    ※    ※    ※

 子供の教育だって、まずは親と子の家庭の中でこそ身につけることは多いはず。基本的な生活習慣や感謝の念、社会や人生への価値感などは家庭の中でこそ培われるべき事柄。

 その基本に立った上で、補完性の原理として集団生活という社会へ出るための練習や、切磋琢磨の精神、知識・学問の修得、自分よりもすごい奴がいるという事への畏怖などを知るのが学校というより大きな存在であるはず。

 補完性の原理は自らだけではできないことを補ってもらうだけ、という基本的な精神がなくては、単に社会の恩恵にたかり、それを貪っているだけということになってしまいます。

 改革や変革なんかは統治システムの話ではなく、自分たちの考え方を変革する方が先なのではありませんか。

 せめて自分だけは、自分の家族だけは、自分の町だけは…。

    ※    ※    ※    ※

 アメリカ政府の緊急経済対策を下院が否決したことで世界の金融市場が動揺しています。

 アメリカ人の根っこには「儲けているときには莫大な収入を得ていながら、調子が悪くなったら税金で助けてくれ、はないだろう!」という漠然とした怒りの気持ちが見えます。まさに日本でバブルがはじけたときにも、全く同じ感情が渦巻いてなかなか対策を立てられなかった同じ理屈です。

 金融システムが自立していられるうちは良かったけれど、世界中で危機に陥った今、それを補完できるのは各国の政府しかありません。

 正論は正論として、危機管理とは別に議論されなければならないのもまた事実。それを国民に説明して理解してもらうのには時間が必要です。

 自治体経営の記事を読んでいて、補完性の原理を思い出しました。

 我々一人一人の心の備え、気構えが大事なんです、はい。


 < 過去  INDEX  未来 >


こままさ