| 2005年05月28日(土) |
掛川で榛村さん宅を訪問する |
今日と明日の一泊二日で約2ヶ月ぶりに掛川を訪問。とりあえずの積み残しを片付けに行ってきます。
さて、ただいま「掛川奮闘記」から「北の心の開拓記」ブログへの移行推進運動中です。こちらへの移行をよろしくお願いします。
さて今日は、
■掛川駅での出迎え ■榛村元市長宅を訪問 の2本です。
【掛川駅での出迎え】 朝9時の新千歳発エア・ドゥで東京へと向かいました。今日はこれから掛川を訪問して、榛村元市長に会うのである。
今回の訪掛の目的は、昨年度掛川で実施した国土施策創発調査「テーマの豊かなまちづくり」のこれからの展開について、榛村さんの意向や気持ちを確認に行ったのである。
もちろん、選挙後のお見舞いという意味もあるし、その後の掛川の様子を定点観測するという意味もあるのかも知れない。
まあ、一つの町がどういう風に変わりうるのか、というのをこの目に焼き付けておきたいとも思ったのである。
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飛行機は順調で羽田空港から品川へ向かう京急もタイミングが良く、最初の予定の品川発11時30分のこだまよりは一本早く、11時4分発に乗れたので何気なく乗ってしまった。
乗ってから掛川の知人に「一本早く乗ったから」とメールを打ったのだが、返信メールがどうも慌てている様子で、「本当に乗ったのですか?」とか「熱海で降りて蒲鉾を買ってきてくれませんか?」という変なメールが相次いで来る。
「変だなあ」と思いながら掛川駅に降り立ち、ホームに降り立つと約20人ほどのお出迎えの軍団が日の丸の小旗を振って登場。 明らかに周りからは浮いている!とはいえ、歓迎してくれたことに変わりはない。
それだけの出迎えがあったので、私が何気なく電車を一本早めたために連絡をするのが大変だったらしい。これはどうも「すんづれいしました」
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夜はIさんのお宅で仲間がさらに集まってくれるというので期待も高まるところ。
こうして忘れずに出迎えてくれるというのもありがたいことだ。とりあえずまだ2ヶ月くらいなら覚えていてくれていたようではありますね。
【榛村元市長宅を訪問】 まずは先に用事を済ませるために、掛川で合流したシンクタンクのNさんと共に榛村さんの宅を訪問する。
榛村市長のお宅は駅から車で約10分ほどのところで、築180年という庄屋屋敷である。
お宅へつくと榛村さんは椅子で書類に目を通していたところで、「よく来たね」と招き入れてくれた。
時候の挨拶から四方山話、そして話題は選挙の話へ。
「選挙事務所では誰も負けるなんて思っていなかったからねえ」 それでも負けは負け。大衆選挙とはそういうものだ、ということなのだが、このことで様々に人生が変わる出来事ではある。
勝ちがあって負けがある。勝ち組につくか負け組につくかの悲喜こもごもの数々。選挙はやはり現代の戦争なのだな、と思った。
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さて、それはそれとして今日のテーマは、昨年調査の「テーマの豊かなまちづくり」で出された行動計画のような結論を、今後世に問うて全国的な町作りにしようとする意志が榛村さんにあるのかどうか、である。
結論から言えば、「やることは構わないよ」というもので、これからは掛川市長ではなく、まちづくり実践かとしての榛村純一として広く世の中に言論活動を展開しようと言うことにした。
まずは昨年の成果を本にしたり、勉強会や講演会を開催するような企画を立てることで宿題をもらってきた。
昨年の調査がどれだけ世の中の自治体の心に響くものか、試してみたいものである。
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それにしても、まだまだ榛村さんからはいろいろなことを会話の端々から教えてもらえるものだ、と感心する。
「日本人は『教養』というものを嫌うんだけど、『教養のある人』というのは、『文化論ができる人』で、それはつまりトータルな責任感と文化、政策情報、情報の加工力、そしてそれがどうだったかをフィードバックする力、そういうものがある人のことなんだよ」
「地域の力は『トータルの力』なんですよ。都会は専門的と言う縦割りにすぐに逃げ込んで、専門的と言うことはつまり『扱う領域が狭い』と言うことですよ。地域は縦の専門をまとめ上げるトータルの力が鍵です。地方の政治家が中央から馬鹿にされるのは、良質の情報と教養が足りないからなんだな」
「北海道や九州と言った、どこか貧しいところに政治家が出やすいのは、彼らが『貧しい』と言うことをトータルで見ることができるからです。都会の政治家は専門家面してしまって、世の中をトータルで見ることができないんですよ」
こぼれ落ちる言葉の中には、まだまだ知性と教養が満ちあふれていますよ。さすがですねえ。
ここで私から以前から訊きたかった質問を一つ。「榛村さん、昨年の創発調査で元気な町をかけずり回って気づいたのは、中山間地でありながら元気な町には『山持ち』の首長さんが多かったのです。『山持ちは自分が民を幸せにすると言う気概と覚悟において、他の人種より強いものがある』と考えますが、いかがでしょうか?」というもの。
すると「それは確かにあるかも知れませんね。榛村家の初代は1572年にこの地に入ってきたという記録があるんだけど、そのときに杉の木を5本植えて、これが我が家のご神木になっているんですよ」 「はい」
「子供の時に親から言われて覚えているのは『山は総有物だと思わなくては行けない』ということでした。私有でも公有でもない、みんなのものという総有物ですよね。子供の時には『何を言っているのかなあ』と思ったけれど、今はそれを僕が息子に言っていますよ」 「なるほど」
「さっきの五本の木は、『これを切るときは家がつぶれるときだと思え』とも言われましたよ」 「その木はまだ残っているのですか?」 「台風で一本倒れたので、土間のテーブルにしてあるよ」
なるほど、あのテーブルがそうでしたか。
「満鉄の株が大暴落して、日本中の土地持ちが没落した。戦後農地解放で農地持ちが没落した。そして残ったのは山持ちだけ。それが今日はこの始末。こういうことを本当に分かって伝えようとしたのは、柳田国男と宮本常一(つねいち)までだったなあ…」
ううむ、まだまだ話しかければいろいろなことが教えてもらえそうである。時間が来たのでこの辺で今日の訪問は終わってしまったが、榛村さんも暇そうにしているので、掛川の人は塾でも開いてもらって教養を教えてもらってはいかがだろうか。
榛村さんの家で、都会の雑音がいっさいしない空間で、聞こえるのは風邪の音と、蛙の鳴き声だけ。
同行のNさんも「すばらしいですね。こういうところに住むのが僕の夢ですよ」と感慨深げである。
別れ際に榛村さんが、「今考えているんだけど、要請に応じて一泊二日でその町の進むべき道をコンサルタントするというのはどうだろうかと。一日目はその町を見て歩いて、二日目にいろんな人に会って、コンサルティングをするんですよ」 「たった一泊二日でですか?ちょっと無理なのでは?」
「ははは、もうほとんどの町へは行っているからできると思っているんだけどね」 「二宮尊徳が回村して行ったコンサルティングは何というのですか?」
「うむ、それは仕法と言ったんだ」 「平成の一泊二日の仕法ですか、なにか良い言葉があると良いですね」 「考えておいてくださいよ」 「そうですね」
* * * *
そうして榛村さん宅の訪問は終わった。私もこういうゆったりとした時間の中でもっと榛村さんと語り合っていたかったなあ、とつくづく思った。
そう言う意味ではもったいない3年間。掛川にはまだまだ市民の知らない財産があるんですよ。
裏山の雑木が黄緑色に変わって明るくなっている。ああ、榛村さんの後ろで山が笑っていた。 いつかまた来ます。それまでお元気で。
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